教科書で習う明治の文豪、「五重塔」
の幸田露伴一族の墓域

幸田露伴について……
 
  幸田露伴は幕臣幸田利三(成延)の四男として生まれた(慶応3年(1867年)7月23日生)。子供の頃は病弱であった。明治11年(1878年)に東京府第一中学正則科に入学する。尾崎紅葉や上田萬年、狩野亨吉らと同級生であった。一度は官職になり電気技師となるが、文学に心を奪われ、特に坪内逍遙の『小説神髄』や『当世書生気質』などに影響を受けたようだ。

 明治20年(1887年)職を放棄し北海道から東京に帰京。父の仕事を手伝い文学に傾倒する、世の注目を集めたのは、処女作「露団々」(明治22年)が「都の花」に発表された後のことである。出世作は『風流仏』(明治22年)である。

 明治24年に有名な『五重塔』を発表する。尾崎紅葉と共に「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた。第一回の文化勲章授与者である(昭和12年)。

昭和22年(1947)7月30日死去、79才であった。墓名は「露伴幸田成行」である。写真左側の墓、右は妻の墓らしい。幸田露伴はキリスト教徒であった。露伴も天国かと思ったら、極楽浄土でびっくりしたろうと思う。


幸田延子の墓は間違い、本名は幸田延である
 

左の墓は、幸田露伴の妹、洋楽家の「幸田延」(1870〜1946)である。彼女は1889年からアメリカやドイツに留学したのち1895年に帰国、東京音学校の教授になり日本の音楽教育に尽力した。教え子の中には山田耕筰、久野久などがいる。日本初の女性ピアニストである。日本初のバイオリンニスト「安藤幸」は妹である。不思議なことに、墓名は「幸田延子」である。しかし、調べると本名は「幸田延」に間違いない。「藝文家所誌」結城素明著(昭和28年発行)にも「幸田延子」と記載されている、このため「幸田延子」引用されていったのではないか。

本名は幸田延、当時は親しい間柄では愛情を込めて「子」をつける習慣があったようだ。そのため、延子さんが普通に使われていた。彼女は生涯独身であったため養子縁組をした。墓はその養子の方が作られた、そこで本名知らずか、又はを知ったうえで養母への愛情を込めて「延子」と記したのかも知れない。(子孫の方のメールからおしえられた、そこからの推理)


教え子が作った石碑、幸田延先生となっている。
郡司成忠の墓
 左は兄で北方開発に力を注いだ「郡司成忠」(1860〜1924年)の墓である。彼は、開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力した。

下の錦絵は、千島の探検に出発する郡司成忠を描いた錦絵(『錦絵 幕末明治の歴史11巻 日清戦争』より』講談社刊 全12巻 昭和53年頃発行より)↓

幸田成友の墓
 

上の墓は、弟で史学者の「幸田成友」(1873〜1954年)である。彼は明治43年(1910)から昭和19年(1944)まで慶応大学で教えた。江戸時代の日本経済史・日欧通交史の研究をする。大正7年(1918)から11年まで宮内省臨時帝室編修官となり明治天皇紀の編纂に従事する。

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