狩野永徳が、渾身こめて描いた安土城や大阪城の障屏画は戦火で焼失した
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『檜図屏風』狩野永徳 4曲1双 紙本着色 寸法・170.0×230.4 安土桃山時代

天正18年(1590)国宝 東京国立博物館所蔵 東京国立博物館の解説から
『作者は桃山時代の泰斗,狩野永徳(1543〜1590)。今は屏風だが,もとは天正18年(1590)12月落成の八条宮邸の襖絵の一部であった。永徳は同年9月に他界した為,製作の最後まで立ち会えたか否か不詳だが,観る者を圧倒する巨木中心の構成と,金地濃彩の豪華絢爛さは,彼のつくりあげた絵画様式を伝えて迫力に溢れている。大枝を振りかざして舞うかのような檜の姿や,限定した色彩の凛としたコントラストは見所である』室町時代の最高傑作の一つ、狩野永徳の「上杉本洛中洛外図屏風」(国宝) left
『上杉本洛中洛外図屏風(国宝)』紙本金地着色 洛中洛外図 狩野永徳筆 六曲屏風 一双
 縦160.6×364.0p
織田信長が上杉謙信に送った有名な洛中洛外図屏風である。この絵は、米沢藩藩主の上杉家に伝来したもので、米沢市上杉博物館所蔵である。天正2年(1574)織田信長から上杉謙信に贈られた資料が存在しており
確かに狩野永徳の作品とされている。1995年に国宝指定された。またこの時、『源氏物語図屏風』も送られた。米沢市上杉博物館所蔵      

 絵の景観から、室町幕府13代将軍足利義輝の時代で、永禄4年(1561年)以降と推定されている。足利義輝は、上杉謙信に上洛して管領に就任せよというメッセージを込めて贈るため、洛中洛外図を狩野永徳に発注した。しかし、永禄8年5月(1565)に足利義輝が非業の死を遂げた結果、同年9月に完成した絵は永徳の元にとどまった。天正2年(1574、織田信長が上洛したあと永徳は信長に接近した。『洛中洛外図屏風』のことを知った信長は、当時同盟を結ぶ必要があった上杉謙信にこの絵を贈った。

狩野永徳を気に入った信長は、軍事的役割の城から信長の権勢と「天下布武(ふぶ)」の象徴として安土城を造る。天正7年(1579)、ここに戦国時代の城のモデルとなった天守閣を持つ城が完成し、その安土城の障屏画を永徳に任せた。しかし天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死ぬと、安土城は留守番役が火を付けて焼失し、狩野永徳の障屏画は失われた。(写真は足利義輝)

次の権力者羽柴秀吉にも認められ、聚楽第、大阪城にも永徳は障屏画を描くが全て失われた。狩野永徳の死亡は天正18年(1590)と言われている。過労と言われているが定かでない。(参照・『謎解き洛中洛外図』黒田日出男著 岩波新書 1996年)右写真は安土城想像図(パブリックドメイン)(「近江国蒲生群安土城之図」石寺村近藤某旧蔵図の写し)(『復元・安土城』内藤昌氏著 講談社 1994年刊)


「上杉本洛中洛外図屏風」には、南から日蓮宗の寺院が描かれている。本國寺、本能寺、妙顕寺、妙覚寺などであるが、それ以外にも描かれており全部で16寺である。当時、16本山と呼ばれた日蓮宗寺院である。洛中にこれだけの寺院があるのは日蓮宗だけであったろう。天文5年(1539)に21の日蓮宗の寺が焼き払われ16寺に減り、再建された姿が描かれたいる。狩野永徳も妙覚寺の有力団徒である。

右隻:狩野永徳(1543〜90)桃山時代(16世紀) 左隻:狩野常信(1636〜1713)
江戸時代(17世紀)六曲一双 紙本金地着色 右隻:223.6×451.8 左隻:224.0×453.5

右隻は、右端下部の狩野探幽による極書によって桃山画壇の巨匠・狩野永徳の数少ない確証的な作品として名高い。岩間を闊歩する雌雄の堂々たる獅子の姿は,実に力強い筆法で描かれ,単純な図様ながら,その迫力,勇壮さには本屏風が永徳自身の作品であることを疑う必要はない。左隻は,後に狩野常信が右隻の図様にあわせて制作したもので,今日は一双として伝わる。明治21(1888)年に毛利藩の毛利元徳より献上された。


伝・狩野永徳 「瀧小禽図屏風」桃山時代 紙本墨画 屏風装(2曲1隻)14.5×172.0センチ 東京富士美術館所蔵 住所・東京都八王子市谷野町492−1


本の写真 『洛中洛外画狂伝』谷津矢車著(株)学研パブリッシング 2013年
謎に包まれた狩野永徳の人生を描いている小説。混乱する室町幕府13代将軍足利義輝から「洛中洛外図屏風」の注文を受ける場面は圧巻であると思う。