徳川家康は本阿弥光悦に鷹峯の地を与えた。ここに芸術家を集めた これが光悦村である

独創的な意匠と技法で時代を切り開いた巨人、琳派につながる本阿弥光悦
   
本阿弥光悦の光悦村(芸術村)
 戦国時代が終わると、荒廃した京都の町を復興させたのは町衆だった。有力な町衆は、金工の後藤家、貿易の角倉家、呉服の茶屋家や尾形家、紺灰の佐野家、絵師の狩野家などである。先頭に立ったのが本阿弥光悦だった。本阿弥家の家職は刀剣の鑑定(めきき)・磨礪(とぎ)・浄拭(ぬぐい)だったが、光悦は書画・陶芸・蒔絵・螺鈿・作庭など多方面に芸術性を発揮した。(写真 本阿弥光悦「船橋蒔絵硯箱」国宝 江戸時代 東京国立博物館所蔵 24.2×22.6×11.8p)

元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から洛北の鷹峯の地を拝領した。広さは、東西360メートル、南北800メートル、そこに本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。50以上の家屋を連ね、尾形光琳の祖父も村で指導にあたったと言われている。信長や、秀吉や家康も、京都の町や日蓮宗を自分の支配下に置き言うことを聞かせようと思った。それに本阿弥光悦は抵抗します。京都の町衆たちは自分たちの自治権を取り戻したいという夢を持っていた。それは宗教的にいうならば「法華の世界を再現したい」ということです。(『日蓮を読み解く80章』監修・浜島典彦 ダイヤモンド社 2016年発行)

この話は、慶長20年(1615)に徳川家康が大阪夏の陣から帰るとき、本阿弥光悦(58才)が「片田舎に住みたいという」願いを聞き、鷹峯の地を与えたと言う。職人達は、刀の本阿弥二郎三郎、鍔や金象嵌の埋忠明寿、蒔絵師の幸阿弥家の徳安、その他、多くの職人達が関わった。この地で光悦は法華教徒の理想の浄土を目指したのであろう。(参考図書・アート・ビギナーズ・コレクション『もっと知りたい 本阿弥光悦 生涯と作品』著者 玉蟲敏子・内田篤呉・赤沼多佳(株)東京美術 2015年)

 徳川家康は地子銭(地代)や年貢を免除した、家康は本阿弥光悦を支配下に置こうと考えたのであろう。本阿弥光悦の死後、後を継いだのは光瑳(みつさ)である、彼は大名前田家より300石の知行を受け、子の光浦も200石を賜った。また、光浦の弟は日蓮宗下総中山の正中山法華経寺の日允上人となり、後に京都妙覚寺第24世の住持となった。彼は本阿弥光悦の才能を受け継いだらしく、書は祖父光悦と見間違えるほどであったという。

しかし光悦村も本阿弥光悦の死後64年目から、年貢を徴収されることになった。徳川家康のお墨付も幕府に無視され、特権は剥奪された。本阿弥光悦の目指した信仰で結びついた法華村は衰退した。(参考・「本阿弥行状記」中野孝次著 (株)河出書房新社発行 1992年)
 
本阿弥光悦の蒔絵について……

本阿弥光悦の蒔絵には大きな特徴がある。意匠(デザイン)を古典に取ることである、上写真の「船橋蒔絵硯箱」は『後撰集』巻十、源等(みなもとのひとし)の歌の文字が散らし書きされている。また光悦の蒔絵には陽極や古典を題材にしているものが多い。形の特徴は盛り上がった山形にある。蒔絵技法には、鉛金具と螺鈿が用いられ所にある。室町時代には見られない技法である。この蒔絵を継承したのが尾形光琳である。(写真は『子日蒔絵棚(ねのひまきえたな』重要文化財 江戸時代前期 東京国立博物館所蔵 木製漆塗 縦33.0×横72.5 高さ65.5p)

本阿弥光悦の家系について……

 本阿弥家は、古くより刀剣のとぎ(磨研)・ぬぐい(浄拭)・めきき(鑑定)の三つを仕事にしていた。伝えられる系図によれば菅原氏の庶流という。『姓氏家系大辞典』の本阿弥氏の項には、「菅原高長の晩年の庶子で、長兄長経の養子として育った長春が祖」で、長春は妙本と称して足利尊氏に仕えたと記されている。本阿弥家は室町幕府の御用と商人として経済活動にも従事、戦国時代には京の上層町衆として知られる存在であった。また、熱烈な法華信者で、本阿弥家には厳格な節倹、誠心の気風が流れていたという。  
 本阿弥家六代の本光は松田氏から養子に入った人物で、第6代足利義教(1428〜1441)に仕えたという。七代光心の婿養子となった光二は、応仁の乱(1467〜1477)の当時、京都所司代として権勢を振るった多賀高忠の孫と伝えられている。これらのことから、本阿弥氏が町衆といいながら、室町幕府に出仕する武家と深い関係を有していたことがうかがわれる。光心の婿養子となった光二であったが、のちに光心に実子光刹が生まれると別家を立てた。  

 光二は駿河の戦国大名今川義元のもとに出仕していたが、桶狭間の合戦において義元が織田信長に討たれると信長に仕えるようになった。天正年間(1573〜92)には、越前の前田利家から知行を受けるようになった。永禄元年(1558=弘治四年)、この光二と妙秀の嫡男に生まれたのが、有名な本阿弥光悦である(武家家伝より)

『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(光悦書、宗達下絵)京都国立博物館蔵
この作品は光琳と宗達の合作である。群鶴を金銀泥で鮮やかに描いた宗達下絵の上に、光悦が墨の濃淡を使い和歌を書いた。絵の素晴らしさに光悦は驚嘆したと言われている。




本阿弥光悦は寛永の三筆の一人と言われ、光悦流と言われる書体を創り上げた。「蓮下絵和歌巻断簡」本阿弥光悦筆 33.3×69.1p 池上本門寺の総門にも光悦の扁額がある。
(参考図書・アート・ビギナーズ・コレクション「もっと知りたい 本阿弥光悦 生涯と作品」著者 玉蟲敏子・内田篤呉・赤沼多佳し(株)東京美術 2015年)

 嵯峨本の制作……雲母一版で摺られた本 
 江戸時代初期,慶長10年(1605) 頃〜慶長末頃に,京都嵯峨で出版された版本。本阿弥光悦を中心とし,門下の角倉 (すみのくら) 素庵らの協力によって成ったため光悦本,角倉本とも呼ぶ。木活字本が多いが,木版整版刷もあり,版下を光悦が書き本文,表紙には色紙を用い,雲母 (きらら) の模様を出すなど,日本の印刷文化史上最も美術的な版本として有名である。(参考・ブリタニカ辞典)

「光悦謡本」とは, 観世流謡曲百番をテキストとする謡本で「光悦謡本」と通称されている。大らかな雲母摺模様で飾られた表紙である。俵屋宗達が手がけた謡本表紙モチーフは鶴、鹿、兎、梅、蔦、芒(すすき)、竹など装飾的である。

 慶長年間(1956〜1614)〕刊 古活字版 無刊記 大きさ各24.1×18.2cm 無辺無界 半葉7行13字内外 字高18〜19cm 漢字仮名交じり 白鼠色蔦葉模様雲母摺表紙、薄紅色雲母摺模様本文料紙 原装 綴葉装。  慶長年間に木活字で刊行された観世流の謡本。100番100冊からなる。掲載書は「三井寺」1冊。光悦流の書体であることから「光悦謡本」「嵯峨本謡本」などと通称される。(国立国会図書館の解説)