|
|||
「はねたのわたし弁天の杜」三代歌川広重(1842-1894)の浮世絵、明治25年(1892) 国会図書館デジタルコレクション所蔵 彼は江戸から明治にかけて活躍した浮世絵師で、時代を反映した色使いが特徴で、特に赤色を多用したため「赤絵」とも言われる。また、この時代の浮世絵は開花絵と呼ばれる。 ● 羽田の渡船から見た玉川弁財天社。浮世絵の弁天社は要島にあり鳥居のある神社に描かれている。第二次大戦後、土地がアメリカ軍に接種され、現在は次ページにあるように水神社の境内、公園の一角にある小さな弁天社になり、往年の格式は失われた。 浮世絵の中央部分には、文政元年(1818)にここを訪れた村尾嘉陵が『沖より入ってくる舟のために常夜燈があり…』と書いた常夜燈が見える。 この地は古くより戦略的に重要な所であり、鎌倉時代より水軍がいたようだ、北条氏が整備した「行方弾正の水軍」は北条氏が滅亡後、徳川に引き継がれ戦国時代は水軍の役割を果たし、徳川幕府が開かれると江戸への物資輸送に重要な役割を担った。それらの功績から漁労権を与えられた、その見返りとして毎月一度は幕府将軍家に旬の魚を上納した。(御膳御用という) ■絵の中央に見える山々は遠く三浦半島であり、弁天社の向こうには房総半島が見えた、美しい海岸線である。 |
|||
↓同じく広重の描く玉川弁天社 |
|||