新派の女形、花柳章太郎と映画監督 溝口健二の墓

写真 墓


花柳章太郎について……
 本名 青山章太郎(1894〜1965年)東京日本橋生まれ、戦前・戦後にかけて新派を代表する女形である。初舞台は「雪子夫人」(本郷座)である、大正2年(1913)には幹部となり、大正4年(1915)に演じた『日本橋』のお千世が評判になり人気女形となる。後に本流新派からの脱皮を目指し試行錯誤を繰り返す、その結果が出たのは昭和6年(1931)明治座で公演された『花柳巷談二筋道』の成功である。同年には映画に進出した、溝口健二監督の『残菊物語』では歌舞伎役者「尾上菊之助」を演じて大好評を得る。女形だけでなく演技することが出来ることが証明された。当たり役は『滝の白糸』、『鶴八鶴次郎』、『婦系図』、『明治一代女』などである。人間国宝にも選ばれた。墓は本行寺墓域内にあり、写真の後ろに見えるのが本行寺本堂である。


写真 墓 溝口健二
溝口健二について……
 1898年(明治)東京浅草生まれ、1956年(昭和31年)8月24日(満58才)で死去。監督生活は34年わたり90本の映画を撮ったと言われるが、30本しか残されていない。 1920年(大正9年)、監督助手として日活向島撮影所に入社する。1923年(大正12年)24才、『愛に甦る日』で監督デビューを飾る。
彼独特の美意識とカメラアングルで構成される映画は、難解な芸術性を廃した娯楽性を持つ、彼が描いたのは我々にも理解できる「日本の美」であった。日本より海外の評価が高い。
1953年大映専属となり宮川一夫カメラマンという才能を得て独特の映像美を創り上げる。
1952年(昭和27年)『西鶴一代女』でヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞する、
1953年(昭和28年)に『雨月物語』ヴェネチア映画祭銀獅子賞を受賞。
1954年(昭和29年)『山椒太夫』で再びヴェネチア映画祭銀獅子賞を受賞、三年連続でヴェネチア映画祭受賞という偉業を成し遂げて、世界中に溝口の名を知らしめた。特にヨーロッパの若い監督に多大な影響を与えた。 
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