万延元年(1860)の小石川富里下の絵図(尾張屋清七 板元)である。
 
  現代の地図では左上に都営三田線・水道橋駅があり、下方向に同線の春日駅がある。小島藩上屋敷は明治9年から20年の間にほぼ中央から分断され道路が造られた。屋敷跡には憲兵隊の番所が出来た。前の水戸屋敷が砲兵隊の使用となったためである。遅くとも道路が造られるときに門は撤去されたのであろう。
  蓮光院の大名屋敷門だとすると河原久輝氏が手に入れるまで20年近い歳月があり、無理な想定だと考えられる。仮に現在の場所にすると、小島藩上屋敷は後楽園遊園地か、講道館のあたりと考えられる。

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