武士の棟梁としての源頼朝像は、昇華された日本画で表現された


『黄瀬川陣』昭和15/16年 彩色・紙本・屏風6曲・1双 各167.7×374.0 右隻右下に落款、印章; 左隻左下に印章 左隻: 紀元2600年奉祝美術展(「義経参着」)/右隻: 28回再興院展(東京府美術館 1940/41)( 東京国立博物館所蔵)

兄頼朝との対面…黄瀬川の対面
 
義経が頼朝との対面をしたのが、駿河国の黄瀬川(現在の静岡県駿東郡清水町 八幡神社)である。この時、義経が連れてきた武者が問題になる。『平家物語』のひとつ『源平闘諍録』(巻五)ではわずか20騎という、別の平家物語では、対面場所を「相模の大庭野」(神奈川県藤沢市)とし、連れてきた武者も800騎と書く。この数字が本当ならば、頼朝の所に集まった東国武士の中でも有数である。治承四年10月21日の「吾妻鏡」では、頼朝は義経との対面を喜んだとある、連れてきた武者数の記述はない。おそらく驚くほどの人数ではなかったと考えられる。

上は日本画家・安田靫彦氏の『黄瀬川陣』である。情緒高く描き切った作品である。画伯は時代考証に厳しかった。義経の出で立ちは騎馬姿、平安時代は騎射が中心の戦い方である事を見事に表している。日本人が持つ凜々しい義経の日本画イメージは氏が創り上げたものである。

安田靫彦氏の創り上げた義経像である。凜々しい若武者の姿は、理想化された武者(軍人)であり、暴力装置を振るう武者を大義のため、国のためと肯定する雰囲気(イメージ)が造られた。太平洋戦争間近の作品である。

『洞窟の頼朝』前田青頓・画
二曲一隻 絹本着色・屏風 大倉集古館  1929年(昭和4年)再興16回院展・ローマ日本美術展覧会出展  重要文化財

ー源頼朝のイメージを創り上げた日本画二枚ー
  上記2枚の日本画は、戦前の昭和初期に制作された。日本が暗い時代に突入した頃である。画家に武力を礼讃する意図はないと思うが、武士の戦う覚悟が見事に描かれている。武士の棟梁イメージを創り、武士政権を設立したのは源頼朝であり、日本で最初の総合・映像プロデューサーであると思う。奥州合戦に源頼義を河内源氏の祖と祭り上げ、合戦の日程から場面まで忠実に「前九年の役」を再現し、首切りをする武士も子孫に決めたのである。これらの事から奥州合戦を私戦から朝廷の戦いに切り替えた。(私見)

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