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伝・源頼朝像 国宝 京都 神護寺所蔵 藤原隆信が描いたと言われる。彼は藤原定家の異父兄であり、後白河上皇の近臣である、神護寺には、彼の描いた三人の肖像画(国宝指定)がある。『伝源頼朝・伝平重盛・伝藤原光能像』である。では、この頼朝像は誰なのか、足利尊氏の弟・直義と言われている。(参照・『なぜ偉人たちは教科書からきえたのか[肖像化]が語る通説破りの日本史』河合敦著 光文社 2006年刊)拡大表示 ● 神護寺は源氏を名乗る徳川家康の庇護を受けた。神護寺中興の祖普海僧正は、藤原氏から天正末期に、源氏を称する徳川家康の援助を受ける事を目指した。神護寺は源頼朝ゆかりの寺である事を印象づけるため、おそらく足利直義 と思われる名無しの肖像画を、「頼朝御影」として家康に見せて寺領260石を獲得した考える。 この時に寺伝(神護寺略記)が作られて、源頼朝像と伝承された。また寺も京都所司代板倉勝重などの援助を受け再興した。家康にとっても関八州を支配するため、自分が源氏の血筋であることは統治に必要であり、寺に寄進、保護した。(参照・『国宝神護寺三像とは何か』黒田日出男著 角川学芸出版 平成24年発行) ●明治30年(1897)十二月二十八日、神護寺四像の国宝指定 この頃の国宝指定は岡倉天心が記すように、明治十九年頃までの調査は十分な時間を掛けたものでなく、寺伝の信頼性と天心の判断によるものである。国宝指定も天心の意見を参考にしたと思われる。これ以後、源頼朝の肖像であるとされ、教科書にも写真が記載され、現在まで信じられた。 (参照・同上) |
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● 伝 源頼朝像について(京都国立博物館解説) 『神護寺仙洞院に、後白河法皇像とともに安置されていた源頼朝、平重盛、藤原 『 強装束の肩を強く張り、その端から直線的に下りる袖の作り出す三角形の安定した構図には重厚さがあり、院政期の耽美的な絵画とは全く異なる新しい感覚を示している。また袍の唐草の文様には形式化や型くずれのない新鮮さが感じられ、また相好に見られる微妙な立体感の表現には、鎌倉前期の写実の精神がみられる。似絵の名手藤原隆信筆と伝えるが、小型の紙絵の肖像を意味する「似絵」とは一線を画すものである。しかしながら鎌倉前期の大和絵肖像画の代表的傑作である。』(京都国立博物館解説より) ●絹本著色(頼朝)143.0×112.8cm 鎌倉時代(13世紀)京都 神護寺 国宝 「伝源頼朝像」神護寺(修理報告書から) 昭和五十四年(1979)に神護寺三像の修理が行われた、一年半の日時をかけた神護寺三像の修理は、京都の岡墨光堂が担当した。その修理前と修理後に撮影した写真である。(『国宝伝源頼朝像・国宝伝平重盛像・国宝伝藤原光能像 修理報告書』岡墨光堂 1983年刊 非売品) ●上記の修理報告書報告書から 縦143センチ×112.8センチのほぼ等身代の像である。絵に使われている絵絹(えぎぬ)は広く、通常では2〜3枚つなぐのが普通ですが、神護寺三像は一枚の広絹です、当時の日本での製作は難しく、おそらく中国からもたらされた物であると考えられています。(この結果から描かれた時代は下がり、人物は源頼朝でない可能性がある。) (注)広絹 天平尺:二尺五寸(約74cm) ●保護されていた皮膜層を除去すると鮮やかな文様、襞の線、隈取りが表れた、しかし修理や補修の痕跡は見出せなかった。 ●武士階級の登場より柔らかな貴族的装束から、角張った強装束が生まれた。また身につけている太刀も毛抜型で武官の持つものです。有職故実の大家鈴木敬三氏によれば、「神護寺三像は四位以上の公卿で武官である」と認定しています。 ●何故、画像に賛もない人物像が、神護寺三像は源頼朝となったのか、南北朝時代に作られた『神護寺略記』に右大将頼朝卿とあり、それ以後、源頼朝像と見なされた。また、作者は藤原隆信の似絵であると記載されていますが、似絵ではありません、しかも三像は別々の作者と考えられています。これらの事から『神護寺略記』の記述を鵜呑みには出来ません。 (注)似絵とは平安時代末期に生まれた写実性・記録性の強い絵で、細い淡墨線を重ね輪郭を描く技法で描かれおり、小幅(40.3×30.6センチほど)の作品です。随身庭騎絵巻(秦久則像)ウィキペディア。 (参照『国宝神護寺三像とは何か』黒田日出男著 角川学芸出版刊) 鎌倉目次に戻る
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