保元・平治の乱で肉親と戦い、親為義の首を切った源義朝

長田忠致の館で謀殺される源義朝  


源義朝は、為義の長男である。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中、尾張国野間で長田忠致・景致親子に裏切られ謀殺された、画はその場面である。
『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両名の首は獄門にかけられた。
 
伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池(愛知県知多郡美浜町・野間大坊 血池)がある。(参照・ ウィキペディア(Wikipedia)


源頼朝の鎮魂……父・義朝の鎮魂
 
源頼朝は幕府創成の頃、後白河院に対して義朝の首を探して欲しいと申し込んだ。返された首は、菩提を弔うため建立された勝長寿院に祀られた。(現・鎌倉市雪ノ下



「平治物語絵巻(三条殿焼討)」模本・狩野栄信・狩野養信・養福 江戸時代、部分 ボストン美術館本の模写 東京国立博物館所蔵

信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成・源光基・源季実、信西を追捕した源光保らの混成軍であった。義朝配下の軍勢は、子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄・上総広常・山内首藤氏などが参戦したに過ぎなかった。ウィキペディア(Wikipedia)
画は戦いに敗れ、都から脱出するところである。中央上部の武将が源義親である。

源義朝は、東国の武士の棟梁として武士団を掌握していたが、平治の乱で敗死した。そのため棟梁を失った東国武士団は、平氏の配下に付いた。東国の秩父武士団も平家につき、頼朝の挙兵により混乱し、平氏につくもの、源氏につくものに分かれた。
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