曾我兄弟の仇討ちには隠された暗殺計画があった源頼朝の暗殺である

「時政鎌倉殿ノ狩屋ヲ騒ス」画・右田年央 大判三枚揃い 明治24年(1894) 佐々木豊吉版  国立国会図書館所蔵

ー曾我兄弟の仇討ー
    曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討った事件である。よく知られた仇討ちで浄瑠璃・歌舞伎や錦絵に取り上げられた。
 上の浮世絵は、父の仇・工藤祐経を討ち果たしたのち、時致が頼朝の寝所に押し入ろうとする場面である。女に扮して震えているのは、女に化けた頼朝護衛の五所五郎丸である。時致は五郎丸に取り押さえられ、のちに首を刎ねられた。右田年央の錦絵は人物のポーズにこだわり、歌舞伎の「決めポーズ」をする特徴がある。月岡芳年の芳年武者旡類(下記に浮世絵あり)のポーズを参考にしている。右田年央は月岡芳年の門下である。

「賢女烈婦傳 虎御前」一勇齋国芳(歌川国芳) ボストン美術館所蔵

曾我兄弟の仇討ちの謎を探る………
主な5つの説 

 1.本当は頼朝暗殺が主目的であった。

 2.暗殺の黒幕は北条時政である
 3.伊豆と相模の御家人同士の武力衝突にカモフラージュされた
 4.頼朝の弟範頼が関与を疑われ、幽閉される。
 5.常陸国の多気大掾氏・義幹が叛旗を翻すと疑われる。

1. 「頼朝暗殺未遂説」…頼朝暗殺説
  親の敵である工藤祐経を、富士の巻狩が終わった夜に討ち果たしたが、警護の武士達に兄祐成(すけなり)は討たれる。弟の時致(ときむね)は逃れるが、何故か頼朝の寝所に押し入るが警護の五所五郎丸に捕らえられる。頼朝は一時、彼の助命も考えたが結局は斬首にする。
この事件は、何故工藤を討ち果たしたあと頼朝まで襲おうとしたか謎であり、当時から暗殺の主目的は頼朝であると言われた。

2.「北条時政黒幕説」     北条時政(1138〜1215)は、桓武平氏平直方の子孫と称するがハッキリしない、伊豆の在地豪族である、時政は北条氏の当主ではなく傍流である。また頼朝の妻政子の父親である。平治乱以後、伊豆国へ配流された頼朝の監視役となる。

 時政は頼朝の挙兵に参画する、彼の目立った功績と言えば、頼朝の命により朝廷から義経追捕のため、全国の守護・地頭の任命と監督をする権利「文治の勅許」を得たことである。時政は曾我兄弟の仇討ち事件でも関与が噂されるなど噂が多い人物である、頼朝を狙った時政の陰謀であるとの説があるが、真相は不明である。
  時政は頼朝の死後、幕府の13人合議制の一人となる。その後、時政は幕府内で力を付け、頼朝の信頼があつかった武蔵の国守護・平賀朝雅を追い落とすなど謀略の好きな人物である。

『 牧氏事件』について
  元久二年7月、時政は牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。しかし閏7月19日に政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため陰謀は完全に失敗した。。幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった(牧氏事件)(ウィキペディア(Wikipedia)。

3.「伊豆と相模の御家人同士の武力衝突」 この説は、富士巻狩の場で騒乱を利用した御家人同士の争いがあったという。詳しいことは分からない。
4.「頼朝の弟範頼が関与を疑われ、幽閉される」
 『 鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。また、この事件の際に常陸国の御家人が頼朝を守らずに逃げ出した問題や事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある』(ウィキペディア(Wikipedia)
5.「常陸国の多気大掾氏・義幹が叛旗を翻すと疑われる」
  『頼朝の常陸の国支配の基本は、下野国宇都宮氏族八田知家の守護職(しゅごしき)への起用である。』、奥州合戦のおり、東海道大将軍の千葉常胤と八田知家は、常陸の多気義幹・鹿島頼幹・真壁長幹(まかべたけもと)などを配下に従えて戦った。頼朝挙兵の時には、旗幟鮮明で無かった多気大掾氏一族は、この戦いでは、完全に頼朝の配下になったが、不安要素が残ったままであった。ここに起きたのが「曾我兄弟の仇討」である、守護職(しゅごしき)の八田知家より、巻狩の行われている富士野へ急ぎ行くように命じられた多気義幹は拒んで城に籠もってしまった。この行動が謀反と見られ、多気義幹の所領は(筑波郡・茨城南部・茨城北部)は没収され、同族の行方系・馬塲資幹(ばばすけとも)に与えられたという。「建久四年の常陸政変」(「吾妻鏡」)
 
  また、多気義幹の弟・下妻広幹も建久四年の十二月に反北条氏的立場であると八田知家によって殺された。確かな資料はないが、多気義幹の恨みを晴らそうとした人物がいたのかも知れない。
 
「芳年武者旡類 左兵衛佐源頼朝」
画・月岡芳年 東京都立図書館所蔵

「芳年武者旡類 五所五郎丸 曽我時致」
画・月岡芳年 国立国会図書館所蔵

「皇国二十四功 箱王丸」画・月岡芳年
大英博物館所蔵


「月百姿 雨渡の山月」画・月岡芳年
東京都立図書館所蔵


虎女(虎御前)は実在した。

「賢女烈婦傳 虎御前」一勇齋国芳(歌川国芳) ボストン美術館所蔵
『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)5月28日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、6月1日に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されている(建久4年6月18日条) ウィキペディア(Wikipedia)より
 
「賢女烈婦傳 虎御前」一勇齋国芳(歌川国芳) ボストン美術館所蔵

曽我物語の成立ーウィキペディア(Wikipedia)より
  『隠されていた史実を物語として世に広めたのは、物語にも登場する虎御前こと虎女だという。物語は彼女から口承に口承を重ねて徐々に広まり、南北朝時代から室町・戦国時代を通じて語り継がれた。曽我兄弟や虎女に関する史跡や伝承は、北は福島から南は鹿児島まで広い範囲に広がるが、そこからはこの物語が語り継ぎで広まっていった様子を検証することができる。口承は、主に巫女や瞽女などの女語りで行われたという。やがて能や人形浄瑠璃として上演されるようになり、これが江戸時代になると歌舞伎化されて「曾我もの」の演目として定着した。特に延宝四年正月(1676年2月)に初代市川團十郎が『寿曾我対面』を初演して、ここで演じた曽我五郎が大当りした後は、この演目が正月興行には欠かせない出し物となった。』ウィキペディア(Wikipedia)より

歌舞伎において、「曽我仇討ち狂言」は正月公演として欠かせない出し物(曽我もの)である。
 勿論、歌舞伎は史実に沿った実録ではなく、大幅に改変してある。歌舞伎には「三大仇討ち狂言」があり「曽我もの仇討ち」、「赤穂浪士の仇討ち」、「伊賀越えの仇討ち」である。浮世絵も歌舞伎興行に合わせ、数多くに連作・揃い物で江戸庶民を煽った。


伝説化された英雄ものと言えば義経と曽我兄弟が双璧である。室町期の成立期で江戸時代に変容され、大幅に脚色されて準軍記物となった。また往来物と言われるジャンルで曽我物語が扱われた事が大きい、寺子屋などで使われる教科書となったことが庶民に普及する原動力となった。『富士野往来』(室町期に成立した梶原景時と安達盛長らの往復書簡)などが始まりの一つである。歌舞伎では新春の邪気を祓う意味で、荒人神の歌舞伎『寿曽我対面』が演じられることが定番であった。(参照『蘇る中世の英雄たち 「武威の来歴」を問う』関 幸彦著 中公新書1998年)

小田原市デジタルアーカイブ 浮世絵に見る曽我物語
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