東幸(天皇の江戸へ行幸)で六郷川を渡る船橋はどのように架設されたか


天竜川の船橋〉……東幸の通過 明治元年10月3日(1868)

 天皇東幸のため船橋を架設した。見附宿に残された『水野家日記』によれば、船橋の長さ124間(223メートル)あり、舟78艘を並べた。舟はシュロ縄、大鎖、竹縄でつなぎ固定した。この舟の上に18センチほ角の柱を並べ、上に米俵を敷き、土の替わりに川砂を厚く敷いた。かなり頑丈に作られた。天皇の行列は無事に通過する、1日だけ誰でも通行できたが2日目には取り壊された。

 この日の天竜川は、連日の雨で堤防が決壊していた。広い範囲で田畑が冠水していた、そのため河原に新しい道を造った。船橋の両側には大杭の頭に緑色に塗った擬宝珠をのせ、新道の両側に青松を植えて荒涼たる景色を飾った。


大井川の船橋〉……東幸の通過 明治元年10月4日
大井川にも同様な船橋が造られた。この時の様子を、金谷宿の組頭 松浦幸蔵の日記「歳代記」によれば、東幸の当日は雨のため、行列の御輿などに桐の油を塗って防水したという。また、橋の付近は、行列を見物する近隣の庶民で賑わったという。

富士川の船橋〉……東幸の通過 明治元年10月7日
 寺尾村(現 庵原郡由比町 )の名主 小池家の日記(年代記語伝)によれば、漁船24隻を鉄の鎖二本でつなぎ固定、一隻づつ碇を降ろした。舟の上には二間半づつ板を並べ、鎖で手すりまでつけたという、東幸のあとも橋を見物する人々で賑わったという。

多摩川 六郷橋の船橋〉……東幸の通過 明治元年10月12日
享保14年(1729)に長崎から歩いてきたゾウを渡すため船橋が造られた。
 明治元年(1868)にも天皇東幸のため船橋が造られた。川幅は約106メートル、ここに舟36艘を並べ、杭を打って舟を固定させた。舟の上には板を敷き詰めて渡河した。森五郎が作成した「六郷船橋架設設計図」があると言うが詳しいことは分からない。2020年2月、森五郎の「六郷船橋架設設計図」が明らかになった。

 以上のように船橋の構造はだいたい似たようなものである。おそらくは互いに情報を求め作り上げていったに違いない。だだ共通していることは狩り出された農民達の労苦に耐える悲痛な叫び声である。「もう武士の世はこりごり」であると言っているようだ。

『都市紀要1 江戸から東京への展開 東京奠都の経済史的意義』
編集・発行 東京都 昭和28年(1953)


『金町松戸関所 ー 将軍御成と船橋ー』葛飾区郷土と天文の博物館』平成15年刊
船橋の歴史がよく分かる展覧会のカタログ(左の本)である。残念なことに六郷渡しの船橋の記述はない。

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