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『今昔物語集』(1120
年代ころの成立と言う)の巻二十五(第九)に載る「源朝臣、平忠恒を責むる語」があります
●現在の霞ヶ浦、香取海は随分と浅くなり、印旛沼の周りは陸地となった。この後、上の地図から外海へ流れる川は運ばれた土砂で埋まり、閉じられた霞ヶ浦になった。薄い水色は、縄文時代の陸地である。(上の地図赤枠の詳細図) ●今は昔、常陸守に任じられた源頼信は、「平忠常の反乱」を攻めようと軍勢を整え、衣河の尻まで来ると、そこは「海の如し」で、渡しの舟はみな隠されていました。忠常の館は、この内海をはるかに入り込んだ向こうにあり、陸路を回れば7日もかかって急襲できません。頼信は、どうしたものかと思案中、ふと「この海には渡る幅一丈ばかりの道がある」との「河内源氏の家伝」を思い出し、「誰か道を知るものはないか」と家来に問うと、真髪高文という者が「私はたびたび渡りましたのでご案内しましょう」と答へ、頼信軍は無事に対岸に渡ることが出来ました。突然の頼信の出現に驚いた平忠常は、茫然自失となり戦わずに降伏しました。 |
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●上の地図の赤枠は、外海に繋がる出入口である。海に繋がっているため干潮・満潮があり、香取海は、気候が寒冷化に向かうと樹林(木の実や狩猟動物)が変り、それと共に、海が退いて浅海性漁労が困難になりました。 これを契機に縄文から弥生への生活様式転換が進んだとされています。温暖な縄文から寒冷な弥生となり、海退で奥東京湾は消滅し、海岸線は、ほぼ現在の東京湾岸まで退きましたが、古鬼怒湾側では霞ケ浦が残り、漁労の継続を可能にしました。このため霞ケ浦地域では縄文の生活様式が比較的遅くまで続いたということです。上の浮世絵は、浅瀬を渡る源頼信の軍(画・月岡芳年「大日本名将鏡 源頼信」) |
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