●慶長二年(1598)から、六郷用水は幕府代官小泉次大夫(吉次)により15年の歳月をかけて採掘された用水である。用水の全長は23.2キロメートル、ニヶ領用水32キロメートルで合わせて110村、3400ヘクタールを灌漑した。家康は将来を見据えた水田開発の要となる用水を造ったのである。
しかし六郷用水の開削がどのように行われたかに関する資料は、わずか一点である。そのため測量の方法も判らず、推測によるところが多い、

徳川家康は鎌倉幕府編纂『吾妻鏡』 が愛読書であった。そこからの情報により、鎌倉時代の武蔵野国の街道や土地に詳しかった。大田区を横断する「下ノ道」は用水掘削の作業用道として利用できる。作業する人間が道具を運び、何年にも渡り作業する道があることで、家康は江戸幕府を開く以前から用水掘削計画を持っていたと考える。豊臣秀吉の関東移封にも動揺することなく応ずることが出来たのは、武蔵野国を知っていたからである。(私見)2016年
写真は、
再現された六郷用水である。 葛飾北斎の測量図
●用水の堀幅は2.4メートル、土上道・脇土手各1.8メートルの用地が測量杭打ちされた。(場所により数字は変化する)六郷
用水は全部で24区の校区に分けられ
、平均79日の工事行い、下流から上流に向かって行われた。大田区の工区は9カ所である。掘削には10年を越える歳月がかかった。