慶長二年に始まる六郷用水の開削は測量方法など不明な事が多い。
写真は復元された六郷用水(大田区 中原街道・多摩川側)
慶長二年(1598)から、六郷用水は幕府代官小泉次大夫(吉次)により15年の歳月をかけて採掘された用水である。用水の全長は23.2キロメートル、ニヶ領用水32キロメートルで合わせて110村、3400ヘクタールを灌漑した。家康は将来を見据えた水田開発の要となる用水を造ったのである。
しかし六郷用水の開削がどのように行われたかに関する資料は、わずか一点である。そのため測量の方法も判らず、推測によるところが多い、

徳川家康は鎌倉幕府編纂『吾妻鏡』 が愛読書であった。そこからの情報により、鎌倉時代の武蔵野国の街道や土地に詳しかった。大田区を横断する「下ノ道」は用水掘削の作業用道として利用できる。作業する人間が道具を運び、何年にも渡り作業する道があることで、家康は江戸幕府を開く以前から用水掘削計画を持っていたと考える。豊臣秀吉の関東移封にも動揺することなく応ずることが出来たのは、武蔵野国を知っていたからである。(私見)2016年  写真は、再現された六郷用水である。  葛飾北斎の測量図

用水の堀幅は2.4メートル、土上道・脇土手各1.8メートルの用地が測量杭打ちされた。(場所により数字は変化する)六郷
用水は全部で24区の校区に分けられ 、平均79日の工事行い、下流から上流に向かって行われた。大田区の工区は9カ所である。掘削には10年を越える歳月がかかった。

六郷用水の水平を計る
  六郷用水は、水源を狛江市和泉から引いている、標高は25メートルあり、23.2キロメートルを流す高低差である。玉川上水の勾配は450分の一であり、六郷用水は800分の一であり、六郷用水はゆるやかである。

「土地の高低を測量する場合には、高いとこらから始めて低いところへ下りるように測量をする方法がよい。」、「用水路の高低を測量する場合には、60 間をひと区切りとして測量するが、その区間の中央に水盛器を立てて高低を測量する。」とも記載されている。このことから、工事をいくつかの丁場(受け持ち区域)に分け期間短縮をしていたこと、測定を才蔵が考案した竹筒と木で作った水盛器を用いたこと、水平軸の誤差を抑えるために区間の中央に水盛器を設置していること、水盛器を立てて測定していたこと、最長で30 間(約55 メートル)の測量が可能であったこと等々、当時の水準測量の考え方の高さが伺える。(『土木技術と文化財保護の視点からみた玉川上水再考ー特に福生市域を対象としてー』吉江 勝広筆 福生市文化財保護審議会委員)

『春日権現験記絵 (かすがごんげんげんきえ)下の絵
藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の霊験を描いた鎌倉時代の絵巻物。春日権現験記絵巻、春日権現霊験記絵巻などの別名がある[1]。絹本著色、巻子装、全20巻(他に目録1巻)、三の丸尚蔵館所蔵。1309年(延慶2年)に時の左大臣・西園寺公衡の発案で、宮廷絵所の長・高階隆兼によって描かれ、春日大社に奉納された。全21巻(うち1巻は目録と序文のみ)。大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の代表作であると共に、全巻が揃い、制作者が判明していることや、当時の風俗が細かく描かれていることなどから、日本の中世を知る貴重な歴史的資料とみなされている』(ウィキペディア)画は国立国会図書館デジタルコレクションより

部分
水平を計る

左の写真は、鎌倉時代の絵巻物『春日権現験記絵』に載る水準器、長さは一メートルほどか、箱には水が張られており男が糸張っている。おそらく水面と平行を出すためであろう。建築現場でも垂直と水平は大事であり、これらを出すための道具は古来よりあったのであろう。

下の図は水準測量の方法を示した図である。図には「見盤元器」の使用方法とある。

写真は「水木」である。使うのは二地点間の高低差を測定ために用いられた。水木を水平にして、他地点に置いた目当(めあて)板を上下に動かし同じ高さが見通せる位置で目当て板を固定し、地面から目当板までの高さを測ります。その高さから地面から刃圭の横針までの高さを差し引けば2地点間の高低差が得られます。目当板は幅約50センチメートルで棹の長さは3.6メートルあります。写真の水木の紐に重しが付いておらず、垂直が出ていないが実際に使用するときは重しをつけた。

「急なる勾配は水をすいこむ事強く、水下にて溢るるなり。一間について二寸(約7センチ)まではよし」とある。水木には写真でははっきりしないが、水平にする水準器が付いているのようだ。上の図は手頃な戸板を利用した方法である。(『江戸時代の測量術』松崎利雄著 総合科学出版発売 1979年刊)

六郷用水の測量に夜間は、提灯を使用してその明かりを利用して上下の高さを測った。または、提灯の代わりに線香の火を使ったと伝承されるが、詳細は不明である。個人的には提灯を使った事は無いように思う、六郷用水は江戸初期頃の測量であり、その当時ロウソクは庶民にとって大変高価であった、幕府の事業とは言えロウソクを使うことはないと考えるている。夜間の測量は豊かになった江戸中期以降のことであろう。

夜間測量は、忍びが使う「忍者の測量方法」とも言われるが、実用的ではなく詳細は不明である。   トップ扉に戻る