●歌川貞秀は、文化4年から明治12年(1807年から1879年)国貞門下でも才能があり、横浜絵の第一人者と言われる。慶応三年のパリ博には浮世絵師の総代となっており、人気のあった浮世絵師である。横浜絵と共に俯瞰した精密な風景画や合戦の絵巻を得意とした。幕末の頃には北海道から九州まで歩いて、「奥州一覧之図」、「肥前長崎丸山廓中の風景」、各種の詳細な鳥瞰一覧図、名所図を刊行するなど行動的な浮世絵師であった。
多才であった貞秀は「横浜開港見聞誌」(上・注・下の三冊)を文久二年(1862)より慶応元年(1865)かけて出版した。いまで言う案内誌でベストセラーになった。私生活は謎に満ち、よく知られていない。明治11年(1878)頃に没したと言われる。2014.03.18.更新
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