●昭和37年(1962)9月3日「梅田小学校秋期大運動会」の航空写真


昔は「埋めた田んぼ」だから、埋田(うめた)と言われた梅田地区
 明治以前の梅田は、将監谷(しょうげんたに)といわれた沼地の泥地であった。昭和初期(9年頃から)に始まった梅田地区の耕地整理事業により埋めたてられた。前は一面の葦原(あしはら)で足を取られたほど、そのため、種を植える従来の米作田地としては適していなかった、種をあぜ道から播いた「ぶっ込み作法」である。大正の関東大震災により住民の増加が見込めるため、耕地整理で住宅地として埋め立てられた。そのため埋めた土地の「埋田」(うめだ)と言われたが、あまりにもイメージが悪いので「梅田」に変えたという(大森区史から)。古い地図には桐里の山裾に梅田と地名がある、このころから「梅田」と言ったかもしれない。
 明治13年(1880)に測量された地図(陸地測量部)では、梅田の地名はない。(個人蔵)

写真、正面は梅田小学校の、木造2階建ての校舎である、校舎裏側の道は「桐里」への坂道、昭和に造られた新しい道である。左上のカマボコ型建物は、講堂兼体育館である。平成18年(2007)に取り壊され、新しい体育館とプールが建設中であるようだ。上が五反田方向、下が横浜方向である。