都の軍事貴族平氏は続々と東国を目指してやって来た。招請婚が生む所領獲得争い


平安時代中頃の婚姻形態、招請婚(しょうせいこん)とは何か……
平安時代末期は招婿婚(しょうせいこん)が一般的で、父親の宅地(館と所領)は娘に伝わり、それが婿に渡るのが貴族社会の風習であった。勿論、すべての財産を渡すのでなく、「館を譲る」という形であった。生まれた子供は母方で育てられ、男の子ならば男親の姓を名乗ることが許された。
  貴族の男子(嫡子以外)は、親の官位を譲られ財産は譲られなかったようだ、そのため地方の開発領主の娘を狙ったか。また、生まれた子供は母方で育てられ、男の子ならば男親の姓を名乗ることが出来た。地方の豪族に取って魅了ある婚姻制度である。貴族との繋がりが出来て、庇護が受けれるメリットもある。都の下級貴族(軍事貴族)が東国に進出した要因の一つである。
 
武家の棟梁ー源義家の誕生
  高望王(たかもちおう)桓武平氏の流れを汲む武家平氏「平直方」は、平忠常(ただつね)の乱(万寿五年・1028年)の平定に失敗して武家の面目を失う。彼は武名の誉れ高い源頼信の嫡子頼義に自分の娘を嫁がせ武名を取り戻そうと考えた。頼義は彼の娘と結婚して三男二女を得る、その長男が義家である。頼義と直方の娘の婚姻は、相模国における直方の私的従者も受け継ぐことになった。生まれた義家は生まれながらの「武士の長者」(中右記)たる条件も、ここに存在したと言える。  


ここで桓武天皇に始まる平氏の系図を見ると、高棟王(たかむねおう)に始まる貴族平氏と、高望王に始まる武家平氏に分かれる。貴族平氏は都に留まり平清盛に連なる、武家平氏は東国に進出して各地の領主となる。源頼義も都にいた源氏ですが、平直方の娘と結婚することで平直方の所領(相模国)を譲り受けます。相模を手にすることで東国に源氏の地盤を築く事が出来ました。生まれた長男が義家で、源氏と平氏の血を持つ武士でありました。浮世絵は源義家『吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな』(浮世絵・尾形月耕『日本花図絵』)
天皇家に見る招請婚の弊害……母方から父方への移行、摂関政治の衰退。
   招婿婚の例を藤原道長に見てみよう。藤原道長は父・兼家がいる東三条邸で育つ。源雅信の 娘と結婚し、土御門邸に移り住んだ。頼通はここで育つ。兼家が死んでも道長は東三条邸には戻らない。屋敷は女子が相続。この家は兼家の娘・詮子が相続して 一条天皇を生んだりしている。実際には、天皇は奥さんの家に住むことも多かった。960〜1068年まで20回内裏が炎上している。その都度、再建されるまでは外戚のところで住んで いた、これは「里内裏」という。

『摂関家にとっては、天皇に嫁がせた娘が産んだ子を次の天皇として大切に養育すること、また天皇や皇室を経済的に支援して不自由させないことを意味する。母子の結びつきの延長として、天皇と摂関家の関係があり、それを経済的に支えるために、受領人事を動かし、荘園を集積するという理屈である。』(『蕩尽する中世』本郷恵子著 新潮社 2012年)
 
  相手が天皇の場合、女の所に通わせることはできないため、自宅の出張所として宮中に局を作る。妊娠すれば自宅に引き取り出産させ、子供はここで養育する。いつも一緒にいる男子は母方の祖父になるため、その子に対しての影響力は極めて大きい。このため平安時代中期より制度に変化が見られ、生まれた子供の養育を父の一族で行う事が慣例となり、これが後三条天皇以降に起きた摂関政治衰退の原因となった。 (上のイラストは菊池容齋の描く藤原道長である




平安中期以後に招請婚の禁止ー宇多天皇(867〜931年)絵・仁和寺

『寛平の新政』
   招請婚により東国の常陸国や相模国に桓武天皇系の平氏が進出し、軍事貴族が所領を獲得していった。そこに『宇多天皇の寛平の新政 により、王族や貴族の都市集住が義務が義務化された。』(『闘諍と鎮魂の中世』鈴木哲・関幸彦著 山川出版 2010年刊)、このため招請婚は下火になったと思われる。これ以後、都に住む貴族たちに地方の蔑視が進み、東国への軽視になった。頼朝の命を助けたのも「伊豆に流せば何もできない」という思い込みが生んだものである。
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