源義平(鎌倉悪源太)は、源義朝の長男で源頼朝の兄である

源義平(1141〜1160)通称・鎌倉悪源太

  河内源氏源義朝の長子、頼朝の兄である。大蔵合戦以来から強い、猛々しい事から、鎌倉悪源太 (悪源太)と呼ばれる。平治の乱で平氏に敗れ、六条河原において処刑される。義平は義朝の命により、東国から兵を率いて参陣するが寡兵のため力尽き捕らえられた。彼の母親が遊女のため官位についた事はなく、嫡子にはなれなかった。
絵の場面  
  六条河原での処刑の時、義平は執行人難波経房にたいして、「首だけになっても貴様を殺してやる」と言う、「首だけになって何が出来る」と応じると、「雷になってお前を蹴り殺す」と言った後に斬首された。
  数年後、難波経房が平清盛のお供で布引滝を見物していると、突然黒雲がわき上がり、雨の中、難波経房は雷に打たれて死んだと言われる。絵は黒雲中から義平があらわれ蹴り殺す場面である。 義平は母が低い身分の女であったため嫡子にはなれず、嫡子は頼朝になったようである。
(『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』歴史魂編集部 株式会社アスキーメディアワークス 株式会社角川グループパブリッシング 2012年)


「新形三十六怪撰 布引滝悪源太義平霊討難波次郎」画・月岡芳年
東京都立図書館所蔵


『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』) 源義平と平重盛 ウィキペディア(Wikipedia) 平重盛を追い回す義平。
空中から雷神となり雷を落とす義平
「清盛入道布引滝遊覧悪源太義平霊討難波次郎」画・歌川国芳 幕末文政頃、下は義平の幽霊、国芳得意の空彫か。

『木曽義仲の父源義賢は秩父重孝の養子になり武蔵野国比企郡大蔵に進出する、児玉党や秩父一族の畠山重能と結び鎌倉を拠点として武蔵・上野に進出しようとする甥の義平と対立、久寿2年(1155)に義賢と秩父重隆は武蔵野国大蔵館で殺される。 (参照・「源平の内乱と公武政権」川合康著 吉川弘文館 2009年)
上のイラストは、「源義平」菊池容斎『前賢故実』より、国立国会図書館所蔵
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