江戸時代、講談や絵双紙で人気の高い 大江山酒呑童子を退治した源頼光

源頼光(948〜1021)摂津源氏
源満仲の長子で清和源氏の三代目である。摂関家藤原道長に側近として従ったという。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。武門の名将「朝家の守護」と呼ばれ、弟の頼信と共に、清和源氏興隆のもとになった。寛仁元年(1018年)3月、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。これが大江山鬼退治になったのであろう。
源頼光 菊池容齋・画 

 但馬、伊予、摂津(970年)国の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をして話題となる。道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築く。(Wikipediaウィキペディア)

「頼光四天王大江山鬼退治之図」画 一勇齋国芳(歌川国芳)国立国会図書館所蔵

妖怪としての酒呑童子(よく知られた酒呑童子)
『京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により、摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。
姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。
頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかといわれている。大江山(京都府福知山市大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。』(酒呑童子 - Wikipedia)より
 
絵は『酒呑童子絵巻』伝・狩野孝信(たかのぶ)桃山時代、第一巻(全三巻)(東京国立博物館所蔵) 

大江山には3つの鬼退治伝説が残されている。

 1. 『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(彦坐王)が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。
 2.  聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話。
 3.  源頼光と頼光四天王が活躍したことで知られる、有名な酒呑童子伝説である 。



上「芳年武者旡類 源頼光 坂田公時」画・月岡芳年 東京都立図書館所蔵下「大日本名将鑑 酒呑童子 」画・月岡芳年 東京都立図書館所蔵
上の浮世絵は、 摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)である。

画は鳥山石燕『今昔画図続百鬼』から「酒顛童子」(しゅってんどうじ)国立国会図書館所蔵
安永八年(1776)に『画図百鬼夜行』の続編として出された。雨・晦(かい)、明の三部作、解説が加えられた。(詞書)
酒呑童子が鬼に寄りかかり美女を相手に酒を飲んでいる図である。

酒呑童子(しゅてんどうじ)
 
丹波国の大江山、老の坂に住んでいたという鬼の頭、別名。酒天童子・朱点童子とも書く。 
《伝説》……… 一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分した。
(酒呑童子 - Wikipedia)より、絵は歌川芳艶 三枚揃い

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