古い地図から平間街道を見る 新井宿と不入斗村
 


明治初期頃の荏原郡地図で確認する新井宿の様子……御狩場地図を見る
現在、新井宿(あらいじゅく)として知られる地名は、昔は不入斗村(いりやまず)といわれた。それを書いた絵図である。元図は、(『入新井町誌』(入新井町誌編纂部 編者 角田長藏 編集兼発行者 岩井和三郎 昭和2年(1927)20日発行 非売品)の口絵である。絵図下部分が不入斗村で東海道線を境として上部分が新井宿村である。

現住所は「山王下、山王、源蔵原」が山王一丁目。「道免、於伊勢原、八景坂」が山王1.2.3.4丁目。八景坂の一部は大森北一丁目に分かれる。「根岸、木原山」は山王2.3.4丁目。「根が原」は中央一丁目と山王3.4丁目に分かれる。「美奈見、子母沢」は南馬込3.4丁目と中央1.4丁目に分かれる。「長田、皿沼」は中央1.2.4丁目、山王3丁目、大森北5丁目、大森西一丁目と複雑である。「河原作、西沼、新田」は大森西1.4丁目である。

不入斗村(いりやまず)の現住所は、「八幡、潮田」が大森本町一丁目、大森北2.3丁目。「谷沢、谷中、川添」は大森北3.4.5.6丁目。「中」は大森北1.3.4丁目。「高田、堀後、根岸の一部」は大森北1〜4丁目となっている。明治初年頃は不入斗の多くは耕地であり、人家は少なかった。現在、人口の増加で町名が多くに分かれた。


不入斗村(いりやまず)とは、租税を納めなくても良いという説がある。江戸時代にこの地は、幕府から鷹の餌を採る餌差が任命され、鷹の餌となる小鳥(ハト・スズメ)などを捕まえた。幕府領であったので租税はいらなかったのかも知れない。
江戸時代の大田区は相給地であり複雑な幕府領(旗本・木原領、増上寺領、将軍家御狩場)であった。

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