頼朝の挙兵に従うが、常に暗さが伴い人気の無い北条時政
北條時政(1138〜1215)とは  
  桓武平氏平直方に連なる家系と言われるがハッキリしません。娘政子が源頼朝に嫁いだことから、頼朝の挙兵時から従う。曾我兄弟の仇討ちにも関係したとか、噂があり、政敵の誅殺に荷担するなど腹黒い人間と思われている。頼朝の死後、鎌倉幕府初代執権となるが、後妻・牧の方が源実朝の暗殺を画作したため、子の義時、娘政子により伊豆に幽閉され没する。

 絵は北条氏の家紋・「三つ鱗」 の由来を表した浮世絵である。時政が江ノ島に参籠したとき、女が表れ「汝の前世は箱根法師である。六十六部の法華経を書き写して六十六国の霊地に奉納した善根によりふたたびこの世に生まれてきた。子孫は末永く日本の主となるが神慮に違えることがあれば、七代を越えることは出来ない」と告げられる。女が消えると後には三つの大きな鱗が落ちていた。これが家紋「三つ鱗」の由来である。

浮世絵「芳年武者无類 遠江守北条時政」月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
北条時政の失脚
畠山次郎重忠を讒訴により殺した時政は、娘政子、息子・義時から疑いの目で見られ警戒された、そこに起きたのが三代将軍実朝を暗殺して平賀朝雅を将軍にしようとする陰謀、時政は陰謀の首謀者とも、後妻牧の方とも云われているがはっきりしない。御家人も義時・政子に味方したため、失敗し伊豆へ追放される。健保三年(1215)一月六日死去する。
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