徳川家康は秀吉との天下取り争いから、藤原姓から河内源氏へ、何故替へたのか

 徳川家康は、秀吉が天下を取っていた時代には藤原姓を名乗っていた、永禄古写本『歴名土代』には、ハッキリと「藤家康」と記されている。(注・1)系図を拡大

藤原姓から源氏姓に変わるのは、家康が天下取りを意識した頃であろうと考えられる。家康は鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述や歴史から、征夷大将軍は清和源氏の系統でなければ朝廷が認めないと知る。源氏の三代が滅びた後、北条家は征夷大将軍を目指したと思われるが、河内源氏のみが将軍になる、為に朝廷から宮将軍を迎へ執権となり鎌倉幕府を続けた。

これより家康は、清和源氏の系図を手に入れる事に熱意を注ぐ。おそらく関ヶ原勝利の後であろうが、源義国以来の清和源氏足利氏系図を吉良家から手に入れた、赤穂浪士の敵役である吉良家である。家康は河内源氏の新田系を名乗るようになる。江戸幕府が開かれた後、吉良家はこの時の功績で江戸幕府の旗本・高家となったのであろう。大田区の新田神社も崇敬された。

徳川家康は新田義貞に連なる「新田源氏」であると称する
 家康は系図を創る上で重視したのは自分の正当性である。足利幕府が衰退し戦国時代を招いた、そこで目を付けたのが新田義貞に連なる新田源氏である。家康は正当性を源頼朝に求め、義国に連なる新田系を選んだ。
源氏の系譜は『つまり、「源頼朝→足利氏→新田氏(徳川家)」という直線的な系譜ではなく、「源頼朝→足利氏」と「源頼朝→新田氏」という二つの系譜が存在し、足利氏が滅んだ以上、今度は新田氏の新たな系譜が始まり、その新田氏の最初の征夷大将軍が徳川家康であると言うことなのである。』(注1「征夷大将軍研究の最前線」)
天正18年(1590)に江戸入りをすると、翌年に関東一円の寺社に「源朝臣」署名入りの文章を発給している。推測であるが、東国を統治するに源氏でなければならなかったと思われる。上の写真で分かるように、新田系源氏の得川(とくがわ)として登場する。武蔵野は、鎌倉時代より源氏と縁の深い土地である。大田区の新田神社は徳川幕府の庇護を受け、人気のあった神社である。
(注・1)天文6年(1537)が原本、中世日本の四位・五位の位階補任(叙位)の記録簿である。
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