−九郎判官義経の従者に水運に長じた片岡径春がいた「義経記」よりー

『義経記』(ぎけいき)

 源義経(1159―89)の波瀾に富んだ生涯を、義経伝悦や武蔵坊弁慶・静ほか周囲の人々の逸話を添えて描いた物語。全8巻。作者未詳。成立は室町時代と推定されています。

『平家物語』の記述と較べ、主人公である源義経が格段に美化され、『吾妻鏡』にわずかな記述しかなかった弁慶について、その生涯や人物像が詳細に記されているのも特色。一方、平家追討の場面はごく簡単な記述で済まされ、物語の後半はもっぱら英雄義経の没落と悲劇の叙述で占められています。』(国立公文書館ホームページより)

『義経記』は「判官びいき」 と呼ばれる日本人独特の精神構造を作りあげた始まりである。以後、謡曲や幸若舞・浄瑠璃・歌舞伎などの芸能全般に影響を与え、特に出版物が庶民に読まれた江戸時代には広く読まれ人気者になったと思われる。


「大物浦平家の亡霊」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)版元・遠彦 遠州屋彦兵衛 名主印・福島和
十郎・ 村田平右衛門だと考えられる。年代は嘉永年間1〜5年(1848〜1852)諸説あり
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「大物浦平家の亡霊」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)ボストン美術館所蔵

『義経記』によれば……片岡経春は常陸国行方(なめかた)の船乗りである。
 
 『源義経の従者の一人に片岡経春なる人物がいた。義経の都落ちは、はじめ「西国に聞こえたるつきまつと言う大船に、五百人の勢を取乗せて、財宝を積み、二十五匹の名馬共を取り立てて、四国の地を志」したものであった。この大船は淡路島の東を進む途上で、はやくも暴風雨に遭遇する。義経一行は、大船の帆の綱が帆柱の蝉(滑車)につまって、帆を下げることができず難渋する。このとき帆柱にのぼって綱を切る役を演じる者こそ、片岡経春であった。経春は、「常陸の国鹿島の行方(なめかた)という荒磯にそせい(素生)したるものなり』。経春は行方の荒磯に育った船の武者として描かれている。下総国の三崎庄の地頭ともなった経春は曲型的な「内海の領主」であったのである。』(岩田選書「地域の中世」2 『中世関東の内海世界』鈴木哲雄著 岩田書院 2005年刊)

『義経記』を資料として使うことには問題がある、史実ではなく伝承を集めた物語として読むべきであるが、片岡経春なる人物を出しても不自然でない土壌があったと考える。平家物語では、片岡経春が壇ノ浦で海から三種の神爾の一つを拾い上げる功績をあげたとの記述がある。

片岡経春は実在の人物か……
 片岡経春(かたおかつねはる)生没年不詳、平安時代から鎌倉時代初期、平忠常の子孫である両総平氏一族・海上庄司常幹の子。通称は太郎、もしくは次郎、八郎とも。片岡氏は常陸国鹿島郡片岡を名字の地とするが、本領は下総国三崎(海上)庄であった。『吾妻鏡』にも名前があることから実在の人物と思われる。

 史実では、佐竹氏と縁戚関係にあったことから、源頼朝に所領を没収され、源義経に従い壇ノ浦にて戦う。西国に落ちる義経一行に名前が見える。一説には平泉で討ち死にしたとされ、その場所に「片岡の松」と言う史跡がある。この後、一族は滅亡したらしく彼の所領は千葉常胤一族に与えられた。(ウィキペディア)

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