ー源頼朝の武家政権の成功・失敗を一番学んだのは徳川家康であったー

源頼朝座像

江戸幕府を開いた徳川家康が鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』を愛読していたことはよく知られている。

 
  国立公文書館に所蔵の『吾妻鏡』の解説には、『展示資料は、天正18年(1590)の小田原攻めのとき、和議成立の謝礼として北条氏から黒田孝高(如水)に贈られ、慶長9年(1604)に孝高の子の長政から徳川秀忠に献上された、「北条本」と呼ばれる『吾妻鏡』の古写本です。書写年代は16世紀初頭と推定されますが、中には新しい写本も含まれ、徳川家康が自らの所蔵本と黒田家献上本ほかの写本によって、51冊から成る展示資料を編成したと推定されています。紅葉山文庫旧蔵。全51冊』と記載。
 
 勉強家の家康が、これ以前に『吾妻鏡』を知っていたと思われるが、権力の維持・継承の難しさを吾妻鏡から学んだことはすでに指摘されている。


徳川家康が「吾妻鏡」から学んだ事……私見

    1.江戸湾(東京湾)の利用、舟輸送の可能性

    2. 鎌倉街道(上ノ道・中ノ道・下ノ道)の利用

    3.幕府を存続させ、将軍職をいかに問題なく後継者に譲るか学んだ。

徳川家康像
徳川家康の関東を開発する戦略……
 
   私が指摘したいことは、秀吉による関東移府(武蔵野国)で京から遠く追いやられと言われるが、家康は将来性がある土地であることを知っていた。その知識は「吾妻鏡から学んだと思われる。鎌倉幕府が整備した街道(上ノ道・中ノ道・下ノ道)はインフラとして充分に使える。また、江戸湊は江戸湾(東京湾)の輸送路として、また、六浦を中継して外洋航路で大坂や東北の範囲まで輸送可能である。一番の強みは水運の拠点となる江戸湊があり、将来性がある事である。

 江戸幕府開府後、奥州合戦で攻め込んだ三街道(上ノ道・中ノ道・下ノ道)は次のように変化した、家康の愛した中原街道が「中ノ道」であり、江戸城から中原御殿へ、また小田原へ、そして東海道に繋がる。「 下ノ道」は、鎌倉から「朝比奈切通し」を経て金沢八景へ、保土ケ谷、多摩川の平間の渡し、大森山王、大井町から高輪の尾根道を経て両国あたりで奥州へ向かった。この道は日本橋から新設した東海道とほぼ平行する。違いは、三田あたりから六郷渡しで多摩川を渡る海岸沿いの東海道となったことである。

明治政府は首都を東京に決定する……迷走した首都選び
 
  江戸幕府を武力で討伐した明治政府は首都を何処にするか検討したが、最終的には江戸に決定した、大坂や京都は町も狭く、これ以上の拡張は望めない、また大阪湾は、関西・九州には 波の静かな瀬戸内海があり有利だが、東北方向に向かうには不便である。其処にいくと東京湾は、外海から波の静かな江戸湾に入れる。江戸時代には海上運輸の中心であった。これらを考慮に入れ江戸が首都に決定した。しかし幕府討伐を応援した京・大坂の庶民感情を考えると反対であろう、そこで、だますように江戸に天子(朝廷)を移し首都とした。詳細を見る

鎌倉時代の「下ノ道」と江戸時代の東海道を見る

  右の浮世絵は、歌川広重の江戸復興の願いを込めた「名所江戸百景」シリーズの1枚である。現在の大森駅前・天祖神社にあった「兜掛け松」と茶店である。
  伝承によれば、源頼義・義家親子が前九年・後三年の役で奥州へ向かう際に、義家が松に兜を掛けて休んだと言う故事を持つ。手前の道は「下ノ道」(又は平間街道とも言う)で大井から高輪へ向かう。中央の海岸線松並木が東海道である、右が川崎方向で左が品川方向である。

近世の経済基盤は米である。関東移封が決まった徳川家康と側近たちは、武蔵野国がどのくらい米がとれるか気になったことであろう。そこで調べると「下ノ道」は、新田開発に必要な用水掘削に必要な人員・用材の運搬に使用できる道路とわかり、必要なインフラが苦労せずに手に入ると分かった。家康は早いうちに用水建設を決めた、これが六郷用水である。

『名所江戸百景 八景坂鎧懸松』歌川広重 安政5年(1858)大田区立郷土博物館蔵 拡大表示

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