ー大仏再建の勧進に奥州平泉へ赴く西行と引き止めようとする頼朝ー

大仏の再建に尽くした西行と頼朝

  平安時代末期、平氏(治承4年)による兵火で大仏殿が消失した。重源上人が大仏再建に力を尽くしたことは歴史の教科書などで有名である。重源上人に協力したのが西行である、彼はムカデ退治で有名な俵藤太秀郷にさかのぼる家系である、秀郷は左大臣藤原魚名の流れで「平将門の乱」を平定した勇者である。その秀郷九代の孫であり、藤原基衡・秀衡の親類でもある。

 
  佐藤義清(さとうのりきよ)が出家する前の西行の名前である、彼は18才の時に私財寄付で官職を得て兵衛尉(ひょうえのじょう)となる.

20歳の頃には、鳥羽院の下北面の武士として働いていた。北面の武人たちは鳥羽院の親衛隊のような役割を担っていた。彼は武芸はもちろん、詩歌管絃の道にも優れた才能をもっていたようで、和歌の道にかけては、在原業平や紀貫之などの古(いにしえ)の歌仙にもひけをとらないと評判であった。
 
 西行が生きた時代、平泉は藤原基衡の治世であり、中央が疲弊する中で奥州平泉だけが繁栄していた。平泉に大仏再建の勧請の希望を抱いたのが重源上人である。彼は奥州の平泉に西行(当時69才)が行くことを願っていた。その願いを受け西行は、その途中に鎌倉にも立ち寄った。

  『吾妻鏡』文治二年(1186)八月15日の記述によれば…
  西行が鶴岡八幡宮の「放生会」の行われる日に、鳥居の側に立つ西行が見つけられ、頼朝のところに連れて行かれたという。
 頼朝は西行に古式の流鏑馬(やぶさめ)の作法を尋ね、西行は出家の身であったが、快く応じて弓馬について語り明かしたという。また歌について聞くと「心が動くとき、わずかに三十一文字をつくるばかり」と答えたという。翌日十六日、西行は奥州に向う旅に出る、西行との別れに際し頼朝(二品)は銀造の「猫」を与えたという。西行はこの猫像を拝領したが、すぐに門の外に遊んでいた子供に与え、奥州に向かったという。 頼朝は、奥州に行く西行の目的が勧請と知っていた、どのような感情を抱いたかは定かでない。

  平家を滅ぼした後、 奥州を手に入れるという源氏の宿意から、奥州から送る朝廷への貢馬・項金は鎌倉(頼朝)を経て送られることになっていた。(文治二年四月)(参照・『鎌倉文化の思想と芸術 武士・宗教・文学・美術』田中英通著 勉誠出版(株)2016年刊)


驚くほどの平泉の黄金……
 
  大仏造営に対して藤原秀衡が施入した「滅金(めっき)の金」は五千両であり、頼朝は五分の一の千両であった。このことで、頼朝は激しく嫉妬して奥州を手に入れることを誓ったであろう。(参照・「藤原秀衡 公権を握った北方の王者」岡田清一筆)

 この莫大な黄金は黄金伝説として欧州に伝わり、マルコポーロの黄金の島「ジパング伝説」となり、欲望に狂った冒険者達が海に乗り出す大航海時代を迎えた。左の絵はドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774〜1840年)が描いた「港の風景」である。おそらく富を求めて東方に出航する帆船群である。まさしく栄光の時代の夜明けである。マルコポーロの肖像画(右下)


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