河内源氏の始まり源頼義・義家の前九年・後三年の役から源頼朝へ
 

源頼朝は奥州合戦を武家政権樹立の最後の戦いと位置ずけ、全国の武士に動員をかけた、敗者にも参加を促し、働きによっては罪を減ずるとし、24万人を越える軍が平泉に押し寄せた。

奥州合戦への準備ー『吾妻鏡』 文治五年(1190)六月二十四日、奥州征伐旗の調進を千葉常胤に命じる。源頼朝が奥州征伐を決意する。


河内源氏の戦い『前九年の役』(1051〜1062) 
 
  源頼家・義家は『前九年の役』(又は奥州12年合戦 1051〜1062年)と呼ばれる奥州安倍氏征伐のため兵を募ったのである。府中の大国魂神社で戦勝祈願をした後、六郷川河口にやって来て大杉に源氏の白旗をなびかせ兵を集めた。(六郷神社誌)これに応じたのが六郷に地盤を持つ地侍達である。この辺りを治めていたのは、古くより常陸国を治める桓武平氏多気大掾氏の一族である(行方氏の祖は鎌倉時代から)であり。多気氏一族庶流の水運を得意とする一族と思われる。 桓武平氏多気大掾氏の系図

「大日本名将鑑 源義光」画・月岡芳年 東京都立図書館所蔵


  源頼家・義家の軍に多気維幹の参陣 

 常陸の国でも桓武平氏多気大掾氏の一族から兵を集めた、この時、多気大掾氏の 多気維幹が兵(2000人)を率いて参陣した。むかし 平忠常反乱(1028年)の時、頼家の父頼信のもとに、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏・多気維幹(これもと)が2000人の兵を率いて参陣し、維幹は頼信に臣下の礼をとったと言われている、頼信にとってこの参陣は大きな力となった。これ以後、多気維幹は源氏の家人となったと言われ、今回の参陣になったと思われる。 それでも討伐の兵力はわずか3000名でしかなかったと言う。(参照・「源氏と坂東武士」野口 実著 吉川弘文館 2007年)他
 
 「 前九年の役 」は膠着状態であったが、康平5年(1063)、俘囚の豪族・清原氏(清原光頼・清原武則)の兵(約一万人)の応援を得て勝利に終わった。源頼義・源義家は朝廷の官位を得たが、奥州は安倍氏に替わり清原氏の支配(領地)になった。奥州支配を狙った源頼義には不満足な結果に終わり、奥州を手に入れたいという河内源氏の宿意が残った。
 

『前九年合戦絵巻』(東京国立博物館所蔵)拡大表示

『後三年合戦絵巻』(東京国立博物館所蔵)
後方へ矢を放った瞬間である。

『後3年の役』(1083〜1087年)
 清原氏の内紛に介入した義家は「朝廷では寛治元年(1087年)7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定した事実もある事から『後二条師通記』には、この戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。そのため朝廷からの恩賞はなかった。 ここで義家が「武士の棟梁」と言われたのは、自分の所領を共に戦った武士達に分け与えたことである。この事は参加した武士達の信頼を勝ち取り、自分たちの所領を守ってくれるのは義家である。彼は「武士の棟梁」と見なされ、東国を始めとして河内源氏が「武士の棟梁」となった。その義家伝承は彼が死んでも民衆や特に東国で語り継がれた。

武士の棟梁の出現……
  鎌倉幕府を開いた源頼朝が東国で兵(板東武者)を集めることが出来たのは源頼義・義家父子のおかげでもある。(参照・NHKブックス『武士の誕生 板東の兵どもの夢』関  幸彦著 日本出版放送協会 1999年刊)、
  源義家は「武士の棟梁」と認められ、地方の開発領主(在地領主)が庇護を求め土地の寄進が始まった。貴族や寺の荘園の侍(側に控える武士の意味)が割り込むように自分たちの支配する土地を持ち始めた。武士の荘園領主の誕生である。
 義家は後三年の役から10年後の承徳二年(1098)に、白河上皇の強引な意向で受領の要件を満たしたとして、翌年承徳三年(1099)に正四位下に昇進して昇殿を許される。これは僧兵の横暴をおそれた白河上皇が警護に義家の武力(武名)を頼った事による。

義家は1106年(嘉承元年)七月15日に68才で没する。『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)によれば、『鎮守府将軍 正四位下 下野 相模 武蔵 陸奥 伊与 河内 信濃守 左馬権頭 左将監 治部少甫 使左衛門尉 左馬允 源氏一流正統』とある。

源氏から平氏へ、軍事貴族の交代
 
  義家の死後、弟の義親の不祥事、為義にいたっては陸奥守以外はならないと頑なであった。このため白河上皇は源氏を見限り、平氏・平正盛に義親の追討を命じる。天仁元年(1108)に討ち取られた義親の首級を掲げた凱旋パレードが行われ、源氏から平氏への軍事貴族交代が行われた。源氏の没落と平氏の栄華が始まる。
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