ー武蔵野国の武士、御家人となった英雄 畠山次郎重忠 最後の姿ー

「芳年武者旡類 畠山庄司重忠」月岡芳年 明治 東京都立図書館所蔵

月岡芳年が描く畠山次郎重忠(1164〜1205)の最期である。重忠は武蔵武士(坂東武士)の鑑と言われた武士である、源頼朝挙兵の時は平家に従い三浦氏を討つ(衣笠城攻めなど反抗的であったが、頼朝が隅田川を渡河して相模国に向かう「長井渡」で、江戸重長・河越重頼と共に参向する。

 重忠は源頼朝の信頼が厚く重用された。文治五年(1189)七月の奥州合戦では先陣を命じられている。頼朝の死後、讒訴により武蔵野国二俣河で敗死する。

 月岡芳年が描く畠山庄司重忠の死。頼朝の死後六年、畠山重忠は二俣川で追討軍と出会うが、国に帰らず甲冑を纏わず戦うことを選んだ、勇敢に戦い、力尽きようとしている畠山重忠の姿、鎌倉武士の鑑と人気のあった重忠の最後を描いている。芳年らしい見事な構図である。

  私は頼朝の死後、鎌倉幕府は変質したと思う。その中心には北条時政がいた。畠山次郎重忠の死後に反乱は讒訴によると判明、平賀朝政は北条義時により誅殺され、後に時政は北条政子・義時により追放される。

 

平賀朝雅ひらがともまさ讒訴ざんそによる畠山重忠の死。

  平賀朝雅は頼朝の信頼が厚く、武蔵野国を任された源氏の一族・平賀義信の息子である。彼は時政の女婿になってから幕府の実権を握らんとの野望を持っていた。彼は時政の牧御方に、畠山重忠 の叛意があると讒訴、強引に事を進めた。鎌倉に反乱が起きたと畠山重忠 を本拠地から誘い出した。北条義時を大将軍とし、北条時政・葛西清重・足利義氏・小山朝政・三浦義村・和田義盛の大軍をもって、武蔵野国小衾郡からやって来る畠山重忠を待ち受けた。わずか百数十騎の重忠は武蔵野国二俣河で幕府の大軍に囲まれた。もはやこれまでと覚悟を決めた畠山重忠は戦う、最後は愛甲三郎季隆の矢にあたり戦死する。(参照・「北条義時」安田元久著 吉川弘文館刊 昭和61年)

「名高百勇傳 畠山重忠」一勇斎国芳(歌川国芳)大英博物館所蔵

詞書を見ると北条の奸計に嵌まり死んだとある。これが江戸時代の認識であった。


「名誉八行の内 礼 畠山重忠」月岡芳年 明治11年 東京都立図書館所蔵 拡大表示 右→

 

畠山次郎重忠は武勇に優れていたばかりでなく、京での生活経験もあり、音楽的教養もあったようである。鶴岡八幡で静の舞の伴奏を務め、銅拍子を打ったのが畠山次郎重忠である。その貴族的な教養も頼朝の愛されたひとつであろう。(注)銅拍子ー打楽器の一つ、神楽では手平金(てびらがね)と呼ばれる。


畠山次郎重忠(1164〜1205)
 武蔵野国男衾郡畠山荘(現・埼玉県大里郡川本町)に生まれた。同地を根本私領とした畠山庄司重能の長男である。通称は庄司次郎、広大な秩父牧を有する武蔵野国の豪族である。同族には、河越・江戸・川崎・小山田・稲毛・榛谷(はんがや)がいる。北条義時は、畠山次郎重忠謀殺に荷担した横浜の榛谷氏(はんがや)、川崎の稲毛氏を処罰する。これにより武蔵野国の有力な御家人は姿を消し、北条家の支配が進んだ。北条家の陰謀の臭いがする。
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