ー保元・平治の乱で平氏・源氏と戦い、親為義の首を切った源義仲ー




「倶利伽羅峠合戦」画・一勇齋国芳(歌川国芳) 嘉永六年(1853)


倶利伽羅峠合戦……寿永二年五月十一日、現・富山県小矢部市と石川県河北部津幡町
 
  源義仲と平維盛(これもり)の合戦、倶利伽羅峠合戦(くりからとうげのかっせん)または、砺波山(となみやま)の戦いとも言う。平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路
は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍の将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。『源平盛衰記』では、この戦いで牛数百頭の角に松明を括り付け、平家軍に突っ込ませたとあるが、史実ではないようである。(参照・ウィキペディア Wikipedia)これは「火牛の計」と言われる中国の戦国時代挿話を元にした創作と考えられる。



「旭将軍 木曽義仲=
源義仲」 画・歌川芳虎
 
東京都立図書館所蔵



「古今日女鏡 鞆繪女」
画・月岡芳年 大英博物館蔵


「源平盛衰記 巴御前」
画・揚州近延 パブリックドメイン


「英名組討揃」能場面の巴御前、実際の能とは違う場面である。

『 木曽出身の僧が琵琶湖のほとり粟津原にやって来ると、ある祠の前で涙を流す女に出会う。女はこの祠の祭神・木曽義仲について語り、自分はある人物の霊だと明かして消え失せる。僧が弔っていると夢に巴御前の霊が現れ、義仲の最期と自らの奮戦の有様を語り、僧に回向を願いつつ消えてゆく。』(参照・能)



「英名組討揃 巴御前 内田三郎 画・月岡芳年
 大英博物館所蔵



「木曽義仲 巴御前」画
歌川芳員
東京都立図書館所蔵



『巴御前出陣図』蔀関月筆
東京国立博博物館所蔵

軍記物語に登場する人気の女武者巴御前……

  『平家物語』の中では、「覚一本」に大力と強弓の女武者として描かれている。義仲の最後に落ちてゆく場面では、「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後、巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びてゆく。史実では、その存在は確認されていない。しかし、人気ある女武者であり講談から絵双紙、歌舞伎(女暫)で取り上げられている。


平氏の都落ち以後に開かれた院御所議定(いんご しょぎじょう)で、平氏を都から追い落とした功績の「第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家」と決まる、頼朝は関東から動いていないにもかかわらず、武家の棟梁と認められ、従五位に服した。頼朝の政治力の勝利である。実際に追い落としたのは義仲なのに、頼朝の配下とされた。

義仲は後白河院を連れて関東に下向する計画をたてた。
 
  寿永二年十二月十日、後白河院は義仲に平氏追討の院宣を出す、また、寿永三年(1184)一月十一日には義仲に「征東大将軍」に任じられる。(征夷大将軍ではない)寿永三年一月半ば、源義経軍は、平信兼や伊勢の在地武士の援軍を得た源義経軍は京に向け進軍する。源範頼軍は美濃から近江の勢田に向かう。
 義仲は宇治川で義経軍と対峙したが突破された。義仲は近江粟津で相模武士石田為久に討ち取られる

 
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