−河内源氏の武将は江戸時代に人気があった武将達であるー

鎌倉に地盤をもった源頼義(988〜1075年)、義家の父である。  

  源頼義は平氏・平直方の娘婿になり、武家の棟梁となる義家が生まれた。源頼義・義家親子が戦った「前九年の役」(1051〜1062)は苦戦する、辛うじて 俘囚の豪族出羽の清原氏に参陣を要請して勝利した。しかし源頼義・義家親子に朝廷は冷たかった、清原氏の功績とみたのである。頼義の官位は望んだ陸奥守でなく正四位下伊予守となる。

  目指した奥州に介入する事は出来なかった。清原氏は戦功を評価され従五位下鎮守府将軍に補任されて奥州六郡を与えられた。また、安倍頼時の妻は清原武貞の妻と成り、安倍経清の遺児は清原氏に引き取られる。後に藤原清衡になる子供である、これが「後三年の役」(1083〜1088年)の伏線となり奥州を手に入れると言う願望は、河内源氏相伝の宿意(強い願い)となる。

詞書(絵中の記述 現代語訳)
『頼義は頼信の子で、鎮守府将軍に任じられる。冷泉院の時、奥州で反乱を起こした安倍頼時と戦い、昼夜甲冑をとかないこと九年、苦痛をしのんで賊徒と戦う。ある年の六月、士卒みな喉が渇き水を望んでいた時、頼義は八幡神に念じて弓で岩に穴を開けたところ、たちまち清水が噴出した。石清水八幡の号はこれより始まったという。』参照・月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑)
 この伝説を由緒とするのが、大坂府羽曳野市の「壺井八」幡である。
 
「大日本名将鑑 源頼義」画・月岡芳年 拡大表示 大英博物館所蔵


武士の棟梁が誕生 源義家(1039〜1106・八幡太郎義家)

詞書(絵中の記述 現代語訳)
『義家は頼義の長子で用命は源太、鎮守府将軍陸奥守に任じられる。石清水八幡宮の神殿で元服したので八幡太郎と号した。仁国の奥州に赴こうとして名古曽(勿来)の関を越え、山桜が散るのを見て、「吹く風を名古その関と思へども 道もせに散る山桜かな」と詠み、世人から知勇の良将といわれた。長治二年、六十八才で死去』(参照・「月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑」)

秋田県の伝承……「白旗清水 」
後三年の役の時、八幡太郎義家は秋田県の横沢に兵を進めたが、真夏の日であったため、喉の渇きから倒れる兵が多かった。そこで源氏の白旗を地に立てて、石清水八幡宮に祈願した。すると旗を抜いた所から清水が湧き出たという。(木崎和宏編「羽後の伝説」より)
上の頼義伝承と同じである、後世に作られた伝承であろう。後世の「軍記物」の基になった「義家伝承」  

「大日本名将鑑 源義家」画・月岡芳年 拡大表示 東京都立図書館所蔵

 


しょうの名手……源義光(新羅三郎義光)

詞書(絵中の記述 現代語訳)
『源頼義の三男である。新羅明神の社前で元服したので、新羅三郎と号する。弓馬の道に長じ、武田氏、小笠原氏、南部氏の祖となる。義光は笙を吹くことを好み、豊原時元を師として芸を極める。時元が病死した時、その子時秋は幼かったため、時元は義光に家の秘曲を伝えた。義光が後三年の役で奥州に下る際、時秋も従った。家の秘曲を学びたいという時秋の本心を感じた義光は、足柄山でこれを教えた。大治三年死去。享年七十二。』

義光は、苦戦する兄を助けるため、朝廷の許しも受けず奥州に向かいました。この行為が兄弟愛として戦前の道徳教育で賞賛され、教科書にも載せられました。

足柄山で義光は時元より伝えられた秘曲を時秋に伝授した。中秋朧月夜の足柄峠であったと伝わる、絵はその場面である。また、義光は源氏伝来の横笛薄墨を所持しており、義経に渡ったの伝承もあります。(古今著聞集)

「大日本名将鑑 源義光」画・月岡芳年 拡大表示 東京都立図書館所蔵


国史画帳「大和桜」にのる場面、揚州周延 昭和10年(1935) 

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