−奪い取る源頼朝、頼朝は下文(安堵状)による統治を柱とするー


源頼朝政権の本質とは殺して奪い取る、それを御家人に分け与えたのである


  参陣した開発領主達の土地を安堵し、異議のある者は頼朝が成敗すると宣言したのである。その総仕上げが奥州合戦である、平泉の藤原氏を滅ぼす戦いであった。朝廷からの討伐命令(令旨)なしに、日本中から兵(一説には28万)を集め滅ぼした。河内源氏伝来の宿意で、平泉の豊かな財貨と土地が欲しかったのである。

 一般に、源頼朝は義経を誅したためか、情のない非道な冷血漢と思われている。しかし、子細に見ると彼がいなければ鎌倉幕府が開かれず、武家政権が始まる事はなかった。源頼朝の成功の要因は何か、東国武士達を引きつけた魅力は何かを探ぐる。

 頼朝は反逆者であり、河内源氏正統の貴種であるが所領はない、彼の貴種性を信じ祭り上げた東国武士達に戦いが勝利に終わっても、分け与える所領も財貨もない。そこで、頼朝は大胆にも奪い取った土地を分け与え、「下文」(くだしぶみ)と言われる「安堵状」を発給した。朝廷を無視した謀反人の所業である。


『 あなたにとって、私たちにとって、大切なのは関東だ。京都ではない』(1180年10月20日 富士川の戦いの後)

  治承4年 (1180)10月20日駿河国富士川で、源頼朝と武田信義(甲斐源氏)が平維盛と戦い、平氏が総崩れになり、平氏没落のひとつになった合戦後の事
である。勢いに乗る頼朝は京都に登ろうとするが、それを諫めたのが千葉常胤、三浦義澄、上総広常たち東国の武士達の言葉である。頼朝が偉いのは、冷静に考え兵を引き、東国の平定を優先し、鎌倉に根付いて生きていこうと決断したことである。(写真は千葉介常胤)
  性急に京に上った義仲や、朝廷を奪い代わりの天皇を立てた平清盛ではなく、独自の武家政権を目指した事である。頼朝は、東国武士達の脅威であった同じ源氏の佐竹氏を降伏させ、東国をまとめ上げるのに専念した。(『武士の時代を読み直す 戦いの日本史』本郷和人著 角川選書角川学芸出版 平成24年刊)

「下文」(くだしぶみ) とは武士をまとめた権力の基盤である
 
  ここには東国武士達の願い「自分の土地を守り残したい」と言う 欲求があり、それを実現してくれるのが武士の棟梁頼朝である。治承4年 (1180)10月23日、相模の国衛(こくが)に帰り着いた頼朝は、初めての論功行賞を行った。武士達に簡潔な文章で土地の所有を認める文章=「下文」(くだしぶみ)を与えた。これは頼朝が認めたことであり、奪おうとするものは「頼朝が武力で成敗する」ことを意味した。これが「本領安堵」(ほんりょうあんど)である。

  また、頼朝から軍功をあげたことにより、新しい土地を賜(たまわる)ることを「新恩の給付」といった。この二つは東国の武士達が望んだものであり、「一所懸命」=「一生懸命」の奉公となったのです。朝廷や摂関家・貴族(権門)が与えてくれない安堵を与えてくれる頼朝に従うことになりました。河内源氏の祖・源頼信(よりのぶ)いらい、頼義・義家親子が築きあげたてきた、武士の棟梁が頼朝によって実現されたのである。頼朝は朝廷と同じように「下文」という文章で武士の所領を保障し、鎌倉幕府統治の基礎をつくった。(参照・「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」本郷和人著 角川学芸出版 平成24年刊)

『頼朝の反乱軍が推し進めた敵方所領没収と没収地給与は、敵方本拠地の軍事占領という戦争行為であると同時に、頼朝に味方した御家人に対する新恩給与の最も基本的なあり方であった。(中略)御家人社会における利益を頼朝の権力が保障する行為であり、頼朝のもとに各地の武士を結集させるうえできわめて大きな意味をもっていた。』(『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』川合 康著 吉川弘文館 2009年刊)


源頼朝が御家人に与えた下文(くだしぶみ)である。


後に島津氏初代となる惟宗忠久は,元歴2(1185)年8月17日付で源頼朝より摂関家の一つ近衛家の所領で、薩摩・大隅・日向に広大な面積をもつ島津荘の下司職(げししき)に補任された。その時、賜ったのが頼朝の下文である。

  初期の頃の下文には、頼朝の花押がなかったが、千葉常胤は『自分の下文には、是非、頼朝殿の花押が欲しい』と願った。それほど二品頼朝は権威があり、他にも小山朝政も同様に花押を頂いている。頼朝と共に幕府を造りあげた有力御家人が抱く頼朝への強い個人崇拝感情である。(下に千葉常胤の下文があります)


武士の棟梁らしい花押の位置
 この文章は頼朝から御家人に下されたものである。特長は花押の位置にある。右端は「袖」と呼ばれ、ここに押された判を「袖判」と言う。思い切って威張った花押で御家人もありがたがって頂いた。(「読めなくても大丈夫!中世の古文書入門」小島達裕著 河出書房新社)

下文の内容と頼朝の花押(下)

 

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『頼朝の花押は、実名の二字から「束」と「月」をとって合成してつくられている』(『全集 日本の歴史 第6巻 京・鎌倉 ふたつの王権』本郷恵子著 小学館 2008年刊)
 
下文は武士の財産である。
 土地の所有を認める下文は、簡潔な文章であるが、頼朝が出しており武士の財産であった、鎌倉幕府が成立すると初期の下文は新しい下文と取り替えられ、頼朝の花押は省略された、それに異議を唱えたのが千葉常胤ら古くからの武将達です。常胤は「頼朝の花押」を求めます、それほど権威があったのです。左は常胤に宛てられた下文です。(参照・「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」本郷和人著 角川学芸出版 平成24年刊)
( 注)忽緒ーないがしろにする。蕁策ーはかりごと、

『右 に花押がある文章はもっとも尊大である、権威者が下に与える文章である。将軍頼朝がご家人に与える下文である。(参照・「読めなくても大丈夫 中世の古文書入門」小島道裕著 河出書房新社)

 
鎌倉時代初期頃から武士の花押が現れる。また、武士の右筆が文章を書き、花押は本人が書くことが通例になる。戦国時代には、花押は板刻(印)となった。

 
「寿永2年10月宣旨」で頼朝は朝廷の追認を取り付けた。

  『 先日の宣旨に云(い)はく、東海・東山道等の庄公、服せざるの輩あらば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと云々。』『十月宣旨は、東海・東山両道の荘園・国衙領を元のように荘園領主・国司に知行させると共にこの命に服従しない者があれば、頼朝に連絡して、その実力でしたがわせるという内容であり、頼朝の実力支配を前提として、東国の荘園・国衛領を中央の貴族や大寺社に回復させるものであった。』(『玉葉』寿永二年閏十月二十二日条)このことは、頼朝が行った敵方所領没収と没収地給与を朝廷が追認したということであり、それが西国にまで拡大する契機となった。

『沙汰未練書(さたみれんしょ)』(続群書類従・第二十五輯上)


「往昔以来、開発領主として、武家御下文を賜る人のことなり」 と記されるように、「開発領主(根本領主)、すなわち私領の実際の開発領主またはその末裔であって、その所領(根本領主)を鎌倉将軍から安堵され、主従関係のもとに結合された人々」と説明されている。(「鎌倉」の時代」福田豊彦・関 幸彦編 山川出版社 2015年刊)


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