ー河内源氏中興の祖、源頼信は東国に進出して清和源氏の足がかりを築いたー

「大日本名将鑑 源頼信」
画・月岡芳年 拡大表示

河内源氏中興の祖 源頼信
  常陸の国に起きた「平忠常の反乱」を見事に鎮圧した、前任者平氏・平直方が失敗した乱を武力だけでなく、調停で収め朝廷の期待に応えた。この結果は思わぬ事柄に結びついた。

 朝廷の命令に失敗した平直方(たいらなおかた)は、武人としての名誉を失い、将来に悲観して思わぬ行動に出た、自分の娘と源頼信の息子・頼義の婿取りである。招請婚(しょうせいこん)と言われる平安期独特の婚姻制度は、娘に自分の領地・郎党などを譲る婿取りである。これにより、源氏は相模(鎌倉)に東国進出の足がかりを得た。

 源頼信の武人に惚れ込んだ婚姻によって生まれたのが、生まれながらの「武士の棟梁」といわれた源義家である。平氏と源氏の血を引く伝説の武者(武人)である。
左の錦絵は、平忠常の反乱を鎮圧した要因になった渡河による奇襲の場面である。



詞書(浮世絵内の記述、現代語訳)

『 満仲の三男である。武勇でならし、長元元年四月、上総介忠常が下総で乱を起こした際、勅命を受けて板東の兵を率いて討伐に向かった。海を渡って忠常を攻めようと下が、舟がなかった時、頼信は渡るべき浅瀬があることを察し、馬を海に入れ、軍勢もこれに続いた。忠常は、これを見て神業であると感じ、戦わずして降参した。その功により鎮守府将軍に任じられる。康平三年死去。享年七十二。』(『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』歴史魂編集部 株式会社アスキーメディアワークス 株式会社角川グループパブリッシング 2012年)

一説によれば、巾三メートルばかりの浅瀬に、三カ所の馬を泳がせねばならない場所があったと伝わる、それを描いたのが、上の浮世絵の場面である。


常陸国の多気大掾氏 多気維幹と源頼信のつながり−1
  今昔物語』(巻二十五)の「源頼信朝臣、責原忠常(常)語 第九」には、常陸守源頼信が上総・下総両国を支配下においていた平忠常を、鹿島(社)の前の渡しから梶取(香取社)の前の渡しへと攻めようとしたときの話が載る。その時、忠常は渡しの舟をみな取り隠してしまうが、頼信は家の伝えにあったこの海の浅き道をもとめて、騎馬にて渡海に成功したという。』
 (岩田選書「地域の中世」2『中性関東の内海世界』鈴木哲雄著 岩田書院 2002年刊)

上の月岡芳年の浮世絵は、その時の渡海風景を 描いたもので、月岡の構成力を示すものである。



常陸国の多気大掾氏 多気維幹と源頼信のつながり−2

  一説によれば「忠常の反乱」の時、源頼信のもとに、常陸国の桓武平氏である多気大掾氏・多気維幹(これもと)が2000人の兵を率いて参陣したと言われる。維幹は頼信に臣下の礼(名簿を出す)をとったと言われている、頼信にとってこの参陣は大きな力となった。

  義家の「後三年の役」、源義家のもとに致幹(宗基)(むねもと)が参陣した。この記憶は源頼朝に受け継がれ、鎌倉幕府設立頃、多気清幹(きよもと)から吉田・行方・鹿島・玉造氏の家が生まれ、御家人となる。行方郡を収め、鹿島社(神宮)・香取社(神宮)の祭司を扱う。大田区六郷の地を収めた行方弾正は、行方一族のひとつと思われるが詳細は不明である。
(参照・「千葉常胤」福田豊彦著 日本歴史学会編 吉川弘文館発行 昭和62年 新装版刊)

『今昔物語』(巻25)
頼信の忠常反乱討伐を伝えている。維幹は3000騎の軍勢を調え、鹿島神宮の前で合流した。「源頼信」画・菊池容齋 国立国会図書館所蔵




 

『今昔物語』12世紀前半成立か、全31巻

  天竺(インド)・中国・本朝(10巻から31巻)の三部からなる。1040話。源頼信は25巻に4話が収録されている。月岡芳年の「大日本名将鑑 源頼信」は、25巻9話の「平忠常の反乱」に題材を取ったものである。
 馬の専門家によれば、馬の足の立つ所まで乗り入れ、そこから馬から下り、共に泳ぐと川を渡れるそうである。

江戸時代に源頼信は人気のあった武将であったらしく、「英皎うとう一諷」(はなのつきうと ひとつき)安政6年(1859)、「忍夜恋曲者」 (しのびよる こいはくせもの)は「平将門の乱」に題材を取ったものである。
「英皎うとう一諷」画・歌川豊国 安政6年(1859)ボストン美術館所蔵

『箭弓稲荷神社』(やきゅういなりじんじゃ)……当神社のご創建は、和銅五年(712年)と伝わる。
 
 社記によると、平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、その威を関八州にふるい、大軍をもって武蔵の国・川越まで押し寄せてきました。
 朝廷は、河内源氏・源頼信を平忠常追討の任に当たらせ、『当地野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行きました。』 『頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利しました。』 帰陣した頼信は、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、御社殿の建替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷と改めて呼ぶようにしました。
 『以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして多くの人達等の信仰を集めてきましたが、平和な時代を迎へるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、江戸(東京都)をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたといわれています。』
 
(箭弓稲荷御由緒より)住所・埼玉県東松山市箭弓町2−5−14 神社・ホームページ


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