江戸時代、講談や絵双紙で人気の大江山酒呑童子、土蜘蛛退治の源頼光

土蜘蛛(つちぐも)とは古来から上古にかけ、天皇に恭順しなかった土豪(どごう)たちである。

日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である。しかし後代には、蜘蛛の妖怪とみなされるようになった。別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」(ウィキペディア(Wikipedia)。
土蜘蛛伝説には、葛城の土蜘蛛、肥前国、豊後国、日本書紀などにも記述がある。時代を経るうちに土蜘蛛は妖怪土蜘蛛に変化する。

『土蜘蛛草紙』とは物語に見る土蜘蛛たち

  京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったという。(ウィキペディア(Wikipedia) 

左絵は『土蜘蛛草紙絵巻』伝・土佐長隆(とさながたか)鎌倉時代 重文 東京国立博物館所蔵。
但し、左の参考写真は細部を分かりやすく見るため江戸時代の模本である。(栄州ほか・東京国立博物館所蔵)拡大表示 

土蜘蛛を退治した膝丸(ひざまる)ー源氏伝承の刀を使い退治
 
  名前は、試し切りに罪人を切ったところ膝まで切れた事による。源頼光が土蜘蛛を切ったことに蜘蛛切(くもきり)と改めた。その後、源為義の手に渡った時、夜中に吠えたことにより吠丸(ほえまる)となり、源義経に渡ると薄縁(うすべり)となり、最後は源頼朝に渡り、髭丸(ひげまる)と一緒になった。
 



「新形三十六怪撰 源頼頼光土蜘蛛ヲ切ル図」画・月岡芳年 国立国会図書館所蔵
「和漢百物語 源頼光朝臣」画・月岡芳年 ボストン美術館

土蜘蛛 一勇斎国芳 (Wikipediaウィキペディア)
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