−保元の乱、平治の乱を戦った清和源氏の武将、源為義−

「大日本名将鑑 為義」画・月岡芳年
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源為義(1096〜1156)別称・六条判官、陸奥四郎
  源義家の四男、白河院に武力を買われ、鳥羽天皇や強訴への武力(北面の武士)となり、保安五年(1124)に検非違使(けんびいし)になる。しかし、同じ頃、検非違使になった平氏の忠盛が受領を歴任したのに、為義は官位が上がらない、一説には頼義・義家親子の受領・陸奥守を希望して、それ以外を拒否したと伝わる。為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だったと考えられている、ために白河院の不興を被り無冠となる。

『摂関家に接近して、藤原忠実は「天下の固めであり受領になる資格がある」と高く評価した(『中外抄』)。久安2年(1146年)正月、為義は10年ぶりに還任して、当時としては異例の左衛門大尉となり検非違使への復帰を果たした(『本朝世紀』正月23日、26日条)。 鳥羽法皇の勘気も解けたらしく、久安3年(1147年)の祇園闘乱事件では院の命令で強訴防御に出動している。』(ウィキペディア Wikipedia)

詞書(現代語訳)
 
  八幡太郎義家の四男である。左衛門尉と号し、天仁元年、十四才で叔父義綱を甲賀山に攻めてこれを討ち、永久元年、南都の僧が朝廷を襲おうとしたので、これを十七騎で追い返した。大治二年、陸奥守への任官を望んだのが勅許が無いことを憤かり、朝廷への出仕を辞めて六条の邸宅に引きこもったことから、六条判官と呼ばれた。保元の乱では、崇徳院に味方し、敗北、後白河院の勅命によって死罪となった。享年六十三才。

絵は 叔父義綱が籠もる甲賀山を見る為義、為義は保元の乱で息子義朝に敗れ斬首された。(『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』歴史魂編集部 株式会社アスキーメディアワークス 株式会社角川グループパブリッシング 2012年)

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