−歌川国芳が描く胸躍る、驚く奇想の鎮西八郎為朝(源為朝)ー2
「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)版元・鳳来堂 
住吉屋政五郎 嘉永五年(1852)東京国立博物館蔵


「大日本名将鑑 鎮西八郎為朝」
画・月岡芳年
東京都立図書館所蔵


「武者旡類 鎮西八郎為朝」
画・月岡芳年
東京都立図書館所蔵

「新形三十六怪撰ー為朝の武威痘鬼神を退く図」画・月岡芳年
東京都立図書館所蔵


上の2枚は、伊豆大島に流された為朝を描いている、側にいるのは伊豆大島の島民である。「大日本名将鑑 鎮西八郎為朝」の島民は、鬼夜叉と言う為朝が女護島(にょうごしま)で妻にした父親である。家来となった鬼夜叉は、主君の身代わりとなり、館に火をかけ自刃した。逃れた為朝は琉球に渡り賊軍を平定した伝承を題材にした2枚である。

 大日本名将鑑の詞書(現代語訳)

『源為義の八男。身の丈八尺五寸、大力で強弓を引き、知略にも優れていた。十三才の時、父により筑紫へ追放されたが、九州を統一し姓を鎮西とする。保元の乱では、崇徳院方として活躍したが、戦いに敗れ、近江国で捕らえられた。伊豆大島に流されたが、七島を押領すること十余年。嘉応二年、勅命を受けた狩野介茂光に攻められ、為朝は矢を放って抵抗したのち自刃した。享年三十三。あるいは異国に渡ったとも言う。』(「月岡芳年の武者画 大日本名将鑑」)(『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』歴史魂編集部 株式会社アスキーメディアワークス 株式会社角川グループパブリッシング 2012年)

「新形三十六怪撰ー為朝の武威痘鬼神を退く図」画・月岡芳年
 江戸時代には災害や病気を防ぐため、護符かわりに英雄が退治する浮世絵を張った。有名なところでは、ナマズが地震を防ぐと思われていた。


『為朝誉十傑ー白縫姫 崇徳院」画・一英齋芳艶 安政5年(1858年)8月 三枚揃い ボストン美術館所蔵 滝沢馬琴の『 椿説弓張月』の一場面。鎮西八郎為朝の妻「白縫姫」が讃岐に流罪となり、魔道に落ちて天狗となり果てた崇徳院に会う場面。国芳の弟子である芳艶らしい。

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