源頼朝による多気大掾氏から六郷地頭・行方氏への分化。


行方氏の出現は頼朝の命令による。(系図の部分拡大)

12世紀初め、おそらく「前九年の役・後三年の役」の前頃には、多気重幹の分家で多気・吉田・石毛・小栗が生まれた。(注)系図では石毛と小栗は省いてある。
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致幹は多気・水守など筑波山の西麓・南麓、清幹は吉田郡の東部一帯、政幹は鬼怒川を越えた西岸を所領した。そして忠幹は東条を名のって霞ヶ関の南部信太郡の東半分、東条を支配する。
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次に分出したのは行方と鹿島である。ここまでの分出は平安末期から鎌倉初期頃、源平の戦いの前である。
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鎌倉時代の初期に行方景幹氏(行方太郎)が源平の戦いで戦死すると、その所領は小高・島崎・麻生・玉造の四家に分け与えられた。頼朝の意向が働いたと考える。
奥州合戦に向かう順路を決定したときに「行方」という地名が記載されているのである。『吾妻鏡』文治五年七月十七日 奥州追討軍の部署を定める。
吾妻鏡『建久四年(1193)の常陸政変』より
『頼朝の常陸の国支配の基本は、下野国宇都宮氏族八田知家の守護職(しゅごしき)への起用である。』、奥州合戦のおり、東海道大将軍の千葉常胤と八田知家は、常陸の多気義幹・鹿島頼幹・真壁長幹(まかべたけもと)などを配下に従えて戦った。頼朝挙兵の時には、旗幟鮮明で無かった多気大掾氏一族は、この戦いでは完全に頼朝の配下になったが、不安要素が残ったままであった。ここに起きたのが「曾我兄弟の仇討である、守護職(しゅごしき)の八田知家より、巻狩の行われている富士野へ急ぎ行くように命じられた多気義幹は拒んで城に籠もってしまった。この行動が謀反と見られ、多気義幹の所領(筑波郡・茨城南部・茨城北部)は没収され、同族の行方系・馬塲資幹(ばばすけとも)に与えられたという。(「建久四年(1193)4月の常陸政変」「吾妻鏡」より)

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