ー平安末期の常陸の国は広大な内海を持つ平氏の国であった水運ー1.

平安末期の常陸の国は、広大な内海を有する桓武平氏が支配する国。

平安末期頃、 内海は現在の霞ヶ浦から想像できない広さであり、東京湾(古くは江戸湾と言う)に匹敵する広さか、より広大であったかもしれないと言われる。内海と言われるように外海太平洋に繋がっており、海から船が入ることも可能であった、満潮の時には海水の流入があり船の進入を容易にした。また内海に流入する河川も多く、河川を繋ぐ水運が盛んであった。(国土交通局 関東整備局 江戸川河川事務所ホームページ)

下図の赤線は、那珂湊内海から江戸廻りへの水運を示す海上輸送路である。現在、その痕跡は全く失われており、特に「関宿」(番号4番)は東国の水運、特に利根川の中継地として繁栄した。その関宿は江戸時代初期に、徳川家康によって行われた河川改修である利根川の付け替えにより衰退する。


平安時代末期、東国の水運を推理する……
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「内川廻し」と言われた船路とは

 
 水路は物資輸送の大動脈であった。陸路と違い、ほとんど道を整備する必要のない河川や湖沼は、天然の通路であった。陸路が未整備であった古い時代ほど、水上交通への依存度は高かった。しかもこの地域の内水面は外洋と直結していた。(『茨城の歴史』山川出版社)拡大表示

  平安末期頃の常陸の国は、現在の霞ヶ浦が外海(太平洋)に繋がり、内海であり規模も東京湾に匹敵する広さであった。そのため水運が発達しており、奥州からの物資も運ばれたと考える。そのひとつが「那珂湊内海江戸廻り」と呼ばれるルートではないかと考える。奥州平泉の物資も船で運ばれた。(下記は地図番号の説明)

1 奥州の那珂川を下りー那珂川ー涸沼ひぬまー陸路で小川へ(行方氏が支配した行方郡の北部)、また陸路で北浦へ出る二つのルートがあった。また外洋航路で内海へ
2.3         

内海を舟で運び関宿へ、川を遡上する。

4 利根川の関宿(現在の野田市)から利根川を下る。
5 江戸湊へ。関宿は現在の野田市(関宿・二川・木間ヶ瀬村の合併)となり、現在の千葉県西北部(最北端に位置する)東は利根川を境に茨城県と、西は江戸川を境に埼玉県と隣接する。2つの大きな河川にはさまれて、北端は利根川と江戸川の分流点になっている。大胆に想像するならば、江戸湊に着いた荷は、江戸湾沿い運ばれ多摩川河口から積まれた。 
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六郷(多摩川)河口を中継点として神奈川県の六浦まで運ばれたと考える事も可能である。六浦が船運の中継点になったのは、北条義時の頃である

  また、鎌倉街道の中道(中路・中ノ道)を、奥州に向かう利根川の渡河点は、「高野渡し」である。関宿も近い、どちらも明治時代の河川改修で姿を消した。鎌倉時代の水運に関する資料は乏しく、確定的な事は言えなく詳細は不明である

上記「内川廻し」のルート以外にも奥州からの直線的なルートが考えられる。那珂川や鬼怒川を下るルートである。外海の航路である。


源義経が平家との水上戦で活躍できたのは、家来に陸奥国生まれ海の武士団がいたからである。

 『また、義経が海上の戦闘に長けていたのは、彼の配下に熊野王子権現の社家の出である亀井六郎重清や下総国三崎(海上)庄(千葉県銚子市・旭市)を本拠とする片岡次郎常晴、それに「伊勢者」など、海の武士団が多く組織されていたからであるが、彼らは、西国から平泉に至る太平洋水運のネットワークを通じて、平泉藤原氏と密接な関係を有する存在だったと思われる。』ー中略ー『藤原氏滅亡の際、平泉において、泰衡(秀衡の嫡男)の後見として熊野別当を名乗る人物が逮捕されている。(『吾妻鏡』文治五年九月十八日条)。義経と平泉は、切っても切れない関係にあったのである。』(『武門源氏の血脈ー為義から義経まで』野口 実著 中央公論社 2012年)
 
  あまり平安末期から鎌倉時代の水運につて資料は多くはないが、江戸湾(東京湾)の水運は大きな中継点として、江戸湊、六郷河口(多摩川河口)、神奈川県六浦であったのではないかと考える。


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 『江戸時代、江戸の町を洪水から守り、銚子から江戸までの交通路を開き、さらに田や畑を広げるために、利根川の流れを東に変えるという大工事が行なわれました。これが「利根川東遷(とねがわとうせん)」です。徳川家康の命により、文禄3年(1594年)に始まり、60年の月日が費やされました。
  利根川東遷より前、今の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていました。左の地図のどこにあるでしょう、そう、地図の左側、渡良瀬川の下流ですね。利根川東遷により、渡良瀬川は利根川に流れ込むようになりました。一方、関宿から金杉までの間を掘って新しい川を作り、利根川と太日川をつなぎました。こうして誕生したのが江戸川です』
(国土交通局 関東整備局 江戸川河川事務所ホームページ 「江戸川・坂川ってどんな川」より)

霞ヶ関の変化 淡水化する内海
 
  8世紀頃に書かれた『常陸の国風土記』によれば、現在の霞ヶ関は「流海(ながれうみ)」と呼ばれ、『榎海(えのきかい)』と言われた。面積では東京湾に匹敵する湾を形成していた。中世には「内の海」(香取海)と言われる。徳川時代に利根川が付け替えられたため、洪水を起き、そのため大量の土砂が下流に溜まり、江戸時代の寛永15年(1638)頃には霞ヶ浦の自然埋立が進み、淡水湖(堰止湖)になってしまった。
(参照・『霞ヶ浦ー自然 ・歴史・社会ー』茨城大学地域総合研究所編 (株)古今書院 昭和59年)

鎌倉時代 には香取・鹿島両神宮の支配が進み、この支配を行ったのが行方一族である。

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