ー武蔵野国の武士団は、源頼朝が最も信頼する武士団であったー

清和源氏の祖・源経基つねともが武蔵介になった事もあり、嫡男の源満仲(多田源氏の祖)も武蔵介に就任した。武蔵野国は優秀な馬を産する牧を多く生み、武門源氏の強い関心を持っていた。しかし、近くの常陸の国は桓武平氏が占めており、東国に源氏の食い込む余地はなかったと思われる。

  安和二年(969)に発生した「安和の変」は、『冷泉天皇の宮廷に起きた政変である 。この結果,源高明が失脚して,藤原氏の独占的地位が確立した。当時,左大臣源高明は,その女子が村上天皇に愛された皇子為平親王の妃となっていたので,その将来をおそれた藤原氏が,高明らが為平親王を擁立して,皇太子守平親王 (円融天皇) の廃立をたくらんでいると密告して、高明とその一門を中央政界から追放した。』(ブリタニカ国際大百科事典)、

  この密告した人物が源満仲であった。源高明(後醍醐天皇系の源氏貴族)はこの政変により太宰府に流され、藤原氏の摂関政治となり、源満仲は藤原北家に与し、摂津国多田に所領を持ち、そこを基盤に武門源氏を造りあげた。源満仲は正五位に昇進し、越前守、常陸国、摂津国と受領を歴任している。

 天元五年 (982)には常陸介になっている。常陸の国は、俘囚の国陸奥に対する重要な国のため、新王任国であった。守は新王が任ぜられるほど格が高かった。満仲は任官の間に東国武士に影響を与え、この時に得られた見聞が「家の伝」として伝わり、平忠常の反乱を討伐するため派遣された常陸介・源頼信が、浅瀬を渡り平忠常を降伏させた情報となった。(参照・『源氏と坂東武士』野口 実著 吉川弘文館 2007年)(画・源満仲『前賢故実』江戸時代、画:菊池容斎)

 


以仁王の呼びかけに立ち上がった武蔵国武士達……

相模 では山内首藤すどう、大庭御厨の大庭景義氏、三浦郡一帯を治めた三浦氏などが知られる。彼らは開発領主であり、源義朝と主従の関係であったと思われる。同じように武蔵野国も頼朝の従い立ち上がった。「源家累代の家人」が多かったのが武蔵国であった、清和源氏の祖、源経基以来の主従関係のためと思われる。
 
  武蔵野国は秩父山系、多摩川・利根川水系があり、複雑で閉鎖的な地域のため「武蔵七党」に代表される独立的武士団が多かった。イラストは、代表的な武士団を示す、武士団の位置は、時代の変化や学説により諸説あり確定的なものではない。(参照・「武蔵の武士団ーその成立と故地をさぐる」安田元久著 有隣堂刊 昭和59年



将常まさつねは武蔵野国に拠点を置く

  この平将常の子孫が秩父武士団の母体となった、将常の孫・武綱は秩父十郎と称し、前九年・後三年の合戦において源義家に従軍したという。
 この武綱から鎌倉幕府の有力御家人である畠山・稲毛・榛谷・小山田・河越・江戸・児玉といった武士団が誕生する。武基の弟武常からは豊島氏や葛西氏が生まれた。(参照・『武蔵武士団』関幸彦編 吉川弘文館 2014年刊)


源義朝が棟梁となり支配していた東国武士は、平治の乱に源義朝が敗死すると平氏の配下になった。このため、源頼朝の挙兵時には、東国の武士の対応は二つに分かれ、平氏につくもの頼朝の付くものと、隅田川渡河まではハッキリしない状況であった。


武蔵国は関東地域の中心に位置する大国として、南は相模国、西南に甲斐国、北に上野国、東に下総国とそれぞれ国境を接しており、西の山地ではわずかに信濃国に接している。この事から平安末期の東国で武蔵国がいかに重要な地域であるかが分かる。東国にやって来た桓武天皇系軍事貴族〔平氏)は、常陸の国多気大掾氏一族が相模国も支配していた。
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