ー平治の乱を制した平清盛はわずか10年ほどで権力の頂点に登るー


『平家にあらずんば人にあらず』平家だけが繁栄する世の中……

 平治の乱を勝利した平清盛は、朝廷の許しも得ず、敗者藤原信頼を斬る。軍事貴族を公卿くぎょうにしたくない朝廷だったが、ここに至り、永歴(1160年)に清盛は正三位になり公卿になる。昔から清盛は傲慢な姿として描かれる。
 治承三年(1179)清盛は数千の兵を率いて朝廷に乗り込み征圧、上皇を幽閉、上級貴族を失脚させる。日本の半分、32カ国の国司を平家一門で独占する。その奢りが上記の言葉である。源氏と違い皆仲の良い平氏は、その富を平氏一門で独占した。
 
日本で初めての武士政権である。平氏は朝廷の中に入り込み政権を造ったが、源氏頼朝の政権は朝廷の外にあり、対立する形で武家政権を造った。朝廷のために平氏を滅亡させるポーズを取ったが、滅ぼすと独自の武士政権を樹立した。頼朝は華美を排して質実剛健を重んじた、武士の価値を認め、彼らの土地所有に頼朝が承認を与える事に立脚した政権を樹立した。当時は、文字を読めなかった
武士が多かったと言います。(『武士の時代を読み直す 戦いの日本史』本郷和人著 角川選書角川学芸出版 平成24年刊)
 


「芳年武者无類 平相国清盛」画・月岡
芳年  明治16年頃 大英博物館所蔵

 ー平清盛の驚くべき早さの昇進ー

1160(永歴1年)正三位 参議 43才

1161(永歴2年)権中納言 44才

1162(応保2年)従二位 45才

1165(長寛3年)権大納言 49才

1166(永万2年)正二位 内大臣 49才

1167(仁泰2年)従一位 太政大臣 50才

すさまじいまでの昇進である。 後白河上皇に高倉天皇が即位すると、清盛の娘・徳子が中宮に立ち、安徳天皇が生まれます。これにより、清盛は摂関家政治を目指したようです。

平清盛の挙兵
  治承3年(1179)、数千の兵を率いた清盛は、後白河上皇を幽閉し、上級貴族を失脚させ、日本の32カ国の国司を平氏一門で独占します、およそ半分を占めた事になります。武力による初めての武家政権です。(参照「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」本郷和人著 角川学芸出版 平成24年刊)


「日招き伝説 」ー夕陽を扇で差し戻すという驕れる清盛の姿
 広島県呉市の警固屋(本州)と倉橋島(音戸町)を結ぶ90メートルほどの海峡は、音戸の瀬戸と呼ばれる。この海峡は平清盛が開削したとの伝承がある。一日で工事を完了させるため、平清盛が沈み行く夕日を扇で差し戻したと言われる。「日招き伝説」である。 
「大日本名将鑑 平相国清盛」画・月岡芳年 大英博物館所蔵

詞書の現代語訳
『清盛は平忠盛の嫡子といわれているが、実は白河院の落胤である。安芸守から身を起こし十一位太政大臣に至る。世の人は平相国いい、剃髪して浄海と号した。平安城(京)を福原に移し、後白河法皇を鳥羽院へ幽閉するなど凶暴・奢侈を極め、養和元年、京で死去。享年六十三。』(『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』歴史魂編集部 株式会社アスキーメディアワークス 株式会社角川グループパブリッシング 2012年)



「月百姿 神事残月」画・月岡芳年 
江戸東京博物館所蔵


「月百姿 神事残月」画・月岡芳年 江戸東京博物館所蔵
 これも月岡芳年の月百姿シリーズの一枚、「平清盛の日招き伝説」の一枚である。三枚の日招き伝説の中で一番豪華なイメージである。清盛は大胆にも後ろ姿である。設定は我々がイメージする祇園祭のようである。祇園祭は京都市八坂神社の祭りで平安時代貞観(859〜877)年間より始まる。明治までは祇園御霊会(御霊会)と呼ばれた。月岡芳年は、祇園祭を意識したのであろう、飾り立てた台の上で清盛が祈りを捧げている。

右の浮世絵は、幕末の文久三年(1863)に行われた将軍家茂の上洛風景を描いた「御上洛東街道シリーズ」の一場面、「祇園」である。絵師は歌川芳艶である


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歌川国芳の清盛(名高百勇傳シリーズ)

「豪傑八罫 兵庫夕照」一勇齋国芳画 名主印・米良太一郎、村田平右衛門(弘化4年から嘉永5年の板行)大英博物館所蔵

 四点の浮世絵は、驕れる清盛の姿を描いた絵である。月岡芳年は「芳年武者无類 平相国清盛」と「大日本名将鑑 平相国清盛」「月百姿 神事残月」の三点、「豪傑八罫 兵庫夕照」は歌川国芳が描いたものである。

歌川国芳の人物は、さすがに確かな描写であるが、全体の印象は教訓的である 。それに反して、上の月岡芳年は歌舞伎の一場面のようである。芳年得意の構図である。

 

「新形三十六怪撰 清盛福原に数百の
人頭を 見るの図」 画・月岡芳年 
東京都立図書館所蔵


月岡芳年のシリーズもの「新形三十六怪撰」の一枚である。妖怪画36枚の連作である。画号は大蘇芳年(たいそよしとし)で、彼が精神の病を克服したのち、使用した号である。明治22年(1889)〜明治25年(1892)にかけて刊行された。月岡の死後、彼の版下をもとに数点が弟子によって創られた。

『新形三十六怪撰』より「清盛福原に数百の人頭を見るの図」 この絵は平清盛が福原にて出会ったと『平家物語』に書かれている髑髏を描いたもの。


「平家物語」… 鎌倉時代の軍記物語。作者は諸説あるが,『徒然草』に記す信濃前司行長説が有力。成立年未詳。原作は鎌倉時代前期の承久の乱 (1221) 以前の成立で3巻と推定される。南北朝時代頃までに増補改修が行われ,6巻 (延慶本) ,12巻 (八坂本) ,20巻 (長門本) などがあり『源平盛衰記』 48巻も一異本と認められる。(ブリタニカ国際大百科事典)

雪の妖怪ー雪爺ゆきじいと言われる。

「平家物語」(元和九年本 第5巻「物怪もっけ」より)
 『 そんなある日の朝、清盛が庭をみると、数多くの髑髏(がいこつ)が、かたかた、ぶるぶるとふるえながら庭いっぱに広がっているた。目玉だけがそれぞれ生きているように清盛を睨んでいる。「な、な、なんだこれは!? 誰か! 誰かおらんか!」と、叫べども誰も来ない…やがて髑髏は一つに集まり、巨大な髑髏となって大きな目玉が清盛を睨む。しかし、清盛、この物怪に対して、逆にグッと睨み返したと』いうからさすがです。髑髏は溶けて消え失せてしまいました。



「新容六怪撰 平相国清盛入道浄海」画・月岡芳年 明治15年(1885)
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