−鎌倉幕府の成立は諸説ある、1183年、1185年、1192年であるー

 
鎌倉幕府の設立年代には、代表的な三つの説がある

1. 1183年設立説…………『文治の勅許』による
 寿永二年(1183)に宣旨が出された。内容は「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は、国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」である、つまり頼朝が東国(奥州)の荘園・公領などの収入を保証するならば、頼朝の東国支配権を認めると言うものである。

 『これにより、 頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。 この時点で頼朝は王権擁護者の地位を得たとし、頼朝の成果は、東国行政権というよりも王権擁護者の地位だったと見方がある。本宣旨を獲得したことにより、頼朝政権は朝廷協調路線に舵を切り、挙兵以来からあった東国独立論は影を潜めた。』(参照『武力による政治の誕生』本郷和人著 講談社 2010年刊)

 私も、この時点での鎌倉幕府設立は早く、頼朝も幕府を開いたとは思っていない、この時は平氏もおり、源義仲も健在である。頼朝の命により義経が義仲の討伐に向かう時期である。
 


2.
 1185年設立説………現在主流の説
 朝廷より頼朝が全国の守護・地頭の任命権を認められる。これにより警察権・軍事力の行使が正当化される

 文治元年(1185)3月 に平氏が壇ノ浦で滅亡する。そこで義経が御しやすいと見た後白河法皇が、義経に頼朝追討の宣旨を出した。しかし畿内(きない)の武士達は、棟梁頼朝の鎌倉になびいて動かない、義経は逃亡する。文治元年11月、頼朝は北条時政を代官として大軍を上洛させ交渉させる、恐れをなした後白河法皇は、頼朝追討の宣旨を撤回、義経追討に切り替える。ここで頼朝は、『謀反人義経の行方を捜索するため、全国に守護・地頭を置かせる権利を認めろ』と要求して朝廷に認めされる。ここに頼朝が完全に全国の支配権を握る。
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   武蔵国の守護

頼朝が守護・地頭の任命権を得ると劇的な変化が起きた。従来ならば武士の働きに対する恩賞は朝廷にあったが、頼朝の下で働く御家人は、働きによって守護・地頭に任命され所領の自治権を認められたのである。上の表にあるように東国の頼朝旗下の御家人が任命された。平氏滅亡で平氏の所領は頼朝に与えられており、それらも恩賞として御家人に配分された。朝廷は武士を支配する手段を失ったのである。図では奥州と出羽の俘囚の国が空白であるが、後の奥州合戦で攻め滅ぼし、奥州を手に入れると代官を置き、鎌倉幕府の直接支配とし、同じように御家人に分配された。

頼朝が偉いと感じるのは、藤原三代の平泉支配が素晴らしいと学ぶと、臆面もなく平泉自治を鎌倉幕府も踏襲するように命じたことである。おそらく全国の守護・地頭にも同じように命じたと考える。(
『平泉の世紀 古代と中世の間』高橋富雄著 日本放送出版会 1999年)

朝廷や貴族・寺社の権門の所領(荘園)は従来どおりとして、貴族の反発を抑えたのではないか。頼朝は自分への討伐宣旨を逆手に取り、要求を朝廷に呑ませたのは政治家頼朝の力であろう。』(『武力による政治の誕生』本郷和人著 講談社 2010年刊)他
 
源頼朝は、東国の武威(武力)と国を治める仕組みを知る官使を、京から連れてきて鎌倉幕府を造りあげた。平清盛のように都の貴族や寺領の荘園を簒奪して恨みを買うのではなく、平泉のように荘園を保護して、貴族の恨みを受けることを避けた。東国の武士達も戦うことは得意であったが、幕府を造るというような政権のグランドデザインを描くことは出来なかった、ここに頼朝が武士の棟梁に祭り上げられた要因のひとつが
ある。  

3. 1192年、又は1190年の設立………従来の教科書
 頼朝の将軍就任。これにより全国の武士の軍事指揮権を与えられる、従来の「いい国作ろう鎌倉幕府」である、又は奥州合戦をした1190年の設立とする。

文治五年(1190)六月卅日、奥州征伐。景能に意見を聞く。 朝廷に奥州追討の宣旨を求めたが返事がないまま、6月末に大庭平太郎景能(古老)に「宣旨がまだ無い事」を相談する。すると古老は曰く、

『軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるるの上は、あながちにその左右を待たしめたまふべからず。随つて泰衡は累代御家人の遺跡(ゆいせき)を受け継ぐ者なり。綸旨(りんし)を下されずといえども、治罰を加へたまはんこと何事かあらんや。』(『全訳 吾妻鏡 第二巻』訳注者 貴志正造 新人物往来社発行 昭和51年刊)
  自分の家来(平泉)を誅するのに天子の許可は必要ない、すでに軍勢を集めているのに、待つのは皆に動揺を与えると頼朝の決断を促した。頼朝も決断して奥州追討軍の部署(吾妻鏡)を定め進軍を命じる。

  私もこの説(1190年)に賛成である。源頼朝はすでに朝廷と対等であり気を遣う必要はない。上手くつきあうだけである。荘園を奪うなどの事で争う必要を認めなかった。頼朝が目指したのは政権交代で天皇になるのでなく、自分も貴族として別政権を樹立することであった。平清盛の福原政権が何故失敗したかを参考にしたと言われる。 また、この平清盛政権を武家政権の初めとする説もある。

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