院政や平氏の戦いに勝利、鎌倉幕府を創設した源頼朝 と武蔵野国
ー浮世絵と資料で探る鎌倉時代前期ー


平安末期の東国 軍事貴族が東国へー

平安時代末期の東国水運 水運−2 霞ヶ浦は広大な内海だった 

交通の要締・葛西御厨かさいみくりや

  東国諸国は平氏だらけ、招請婚は平安時代の特異な婚姻風習

院政・平氏・源氏の争い、暴力で権力を奪い取る権門間
 
頼朝に日本一の大天狗と言われた 後白河院 

 ●平清盛の天下  別の天皇を擁立し福原に移転する平氏

  ●治承・寿永の乱の浮世絵  平氏滅亡で東国武士の世になる

   ●源頼朝の奥州合戦 河内源氏の宿意、奥州平泉藤原氏の富を奪う源頼朝

源頼朝の武家政権を受け継いだのは徳川家康である

 

河内源氏の系図
 

武士政権の誕生 鎌倉幕府   鎌倉幕府が設立された年代は…

 ●武家の棟梁頼朝の下文(安堵状)  朝廷に替わり、頼朝が認める安堵状(本領安堵)

   大仏再建に力を尽くす西行と頼朝 歌人西行の平泉行き

  ●鎮魂寺院ー戦いの犠牲者を悼む  殺したから鎮魂する源頼朝の鎮魂の寺

源頼朝が驚き、模倣した平泉の寺
 
   ● 源頼朝の鎮魂、放生会ほうじょうえ

  ●頼朝の暗殺が目的か、曾我兄弟の仇討ち 隠された謎
   
鎌倉時代の武蔵野国(大田区)鎌倉幕府の重要な防衛ライン多摩川

 ●
鎌倉時代の行方一族  滅亡を免れた一族か、六郷地頭か行方弾正

蕩尽する中世 受領が運ぶ富、分配の権力争い

「前九年・後三年の役」 の戦い  俘囚の国の討伐、義家の私戦

 ●武士の棟梁 源義家伝承  平安から昭和へ続いた武家・軍人の神格化

  江戸時代の源義家伝承 江戸庶民に崇敬される義家
 

浮世絵に見る源氏武将の物語 明治時代から昭和初期へ、軍人礼讃の流れー

清和源氏 …源経基が祖ーー源経基 多田源氏満仲の父、皇族であり六孫王とも呼ばれたという。
 
多田源氏 …多田満仲が祖ー源満仲 経基の嫡男、多田源氏の祖

摂津源氏 …源頼光が祖先

  源頼光 藤原道長など摂関家、坂田の金時を家来にし酒呑童子土蜘蛛を成敗『袴田安輔鬼童丸術競図』

  頼 天皇を悩ます空想上の動物鵺(ぬえ)退治で有名となる。
挙兵の口火
 
  源頼政 公卿になった 源三位、以仁王と平氏打倒に立つ 頼政の恋人 小侍従

嵯峨源氏…源融が祖先ー源融  源氏物語主人公 光源氏のモデル(河原院)


河内源氏…源頼信が祖ー源頼信 知略に優れ、平氏の平直方と結び鎌倉に源氏の基盤をつくる。

 源頼義・義家・義光 頼義が平直方の娘と婚姻、誕生したのが源氏の八幡太郎義家である。

 
源為義 義家死後、為義の頑なな姿勢により、河内源氏は一時衰退する。

 源義平  義朝の長男でありながら 嫡男ではない、通称・悪源太義平

 
源義朝 平治の乱で敗れ斬首される。子に頼朝・義経がいる。

 
源頼朝 挙兵から平家討伐、奥州合戦を經て武家政権・鎌倉幕府をつくる。源頼朝の落胤伝説

 
源義経 平氏討伐の最大の功労者であるが、兄頼朝と仲違い奥州にて自害する。義経_2 
        義経の従者・片岡経春

 
源為朝源為朝ー2  為義の八男、江戸時代に曲亭馬琴『鎮西弓張月 』で英雄となる挿絵は葛飾北斎。
            
信濃源氏…源義賢が祖ー源義仲 為義に繋がる河内源氏、最初に京に入るが鎌倉方義経に敗れる。


武蔵野国の武士と御家人  ー源頼朝挙兵時の板東武士団(東国)支配地と動向ー

 鎌倉権五郎  歌舞伎十八番『暫』の主人公

 畠山重忠 源頼朝に信頼された東国武士の鑑

 仁田忠常 富士の巻狩りで猪を捕らえる。

 熊谷直実  武士に無情を感じ仏門に入る、織田信長と『敦盛』

 長江義景 鎌倉権五郎景政を祖にもつ義家以来の家人

 葛西清重 葛西御厨と信頼される御家人


 江戸重長 葛西清重の説得に応じ頼朝に従う

北条政子…頼朝の死後を纏めた妻・北条政子

北条時政…頼朝暗殺の疑い、讒言で人を追い落とすなど暗いイメージがつきまとう。

北条義時…若いときより頼朝の近習として仕へ、頼朝の鎌倉幕府を完成させた。

『男衾三郎絵詞』 鎌倉武士を知る絵巻(東京国立博物館)

鎌倉から奥州へ向かう道

鎌倉から発する街道(鎌倉街道)とは何かー


鎌倉街道とは、鎌倉から進発する上道、中道、下道

  平安末期の古代道路 ……東国の街道

     大田区の下道……北原庄一氏の踏査  平間街道

伝源頼朝像(神護寺蔵)
ー本当の頼朝像はあるのかー

色々な源頼朝座像
 

神護寺頼朝像の謎

源頼朝−2 頼朝−3
  江戸時代の頼朝イメージ (錦絵)

奥州を巡る源頼朝と歌人・西行
 

大田区と鎌倉幕府を開いた源頼朝との関連
 
  私が鎌倉との関連に興味を抱いたのは、後三年の役に向かう源頼義・義家親子が多摩川河口六郷の地で、源氏の白旗を掲げ兵士を募り奥州に向かったと言う伝承を知ったからである。 何故六郷なのか、この地にどの一族がいたのか。六郷の行方一族は謎が多い、頼朝の鎌倉幕府設立を探るうちに関連も見えてくるであろう
鎌倉時代の行方一族


壇ノ浦の戦い

平安末期、日本の人口は約500万人程と推定されている。

 現在の東京都の人口の半分以下しかない、その中で武士は数パーセントぐらいであろうか、戦闘に参加する武士はせいぜい数千人か、源頼家・義家親子が前九年の役に行くために、六郷にやって来た時の兵士は500人ほどであったという、朝廷の命により各地で兵を集めてこの数字である。源頼朝が奥州討伐に向かった時、集めた兵士は約14万人(吾妻鏡)と記載されている。
 
 平安時代の武士は軍事貴族であり、軍事貴族の郎党である。その少ない武士達が京都と東(関東)で戦い、朝廷と武家が争った。京を中心として関西圏が日本であり、東国は俘囚(ふしゅう)の豪族が支配する異国と接する国であった。東国は異国に備える軍事貴族平氏が支配する未開に近い国であった。そこから武力を背景とする源頼朝が力をつけ奢る平氏を滅ぼし、藤原三代を滅ぼし、東国から東北までも統一した(本島全てが統一)。
 

文治元年(1185)、朝廷は後白河院の迷走で「守護・地頭の任命権」を頼朝に認めることで実質的な支配権を失った(文治の
勅許)、これ以後、朝廷に権力が戻ることはなかった。実質的な源頼朝の武家政権誕生である。現在では1185年が鎌倉幕府開府と言われている。

頼朝の死後、明らかに鎌倉幕府は変質したように思う、暴力革命の常、内部御家人の権力闘争から徐々に北条得宗家 が権力を握った。このページでは、源頼朝が幕府を開くまでを扱う、鎌倉幕府初期の歴史である。(2018.11.04日 更新)
 

曾我兄弟の仇討・頼朝暗殺か
参考図書
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