ー鎌倉時代初期、幕府崩壊の危機を救ったのは頼朝の妻「北条政子」であったー

尼将軍と言われた北条政子(1157〜1225)
 
 政子は頼朝の死後、実子頼家、実朝を失い悲嘆にくれていた事であろう。そこに起こったのが承久の乱である。後鳥羽上皇は政権を取り戻そうと、承久三年五月十四日、鎌倉幕府執権・北条義時追討の院宣を出す、有力御家人に対しても義時追討の宣旨を出す。後鳥羽上皇は朝敵になった以上、義時に集まる武士はすくないであろうと楽観していた。
  動揺する東国武士・御家人に対して行ったのが下記政子の演説である。この演説により御家人の動揺も収まり、大江広元が積極的な出撃を主張する、最後に政子が決済し出撃する。
  予想しなかった反撃に朝廷側は防戦するが、10万を越える大軍に破られる。『敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。』(「承久記」作者不詳 成立不詳 2巻)
 
  後鳥羽上皇は責任を転嫁して逃れようとした。 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。また、藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。結果として皇室を監視する六波羅探題の設置。朝廷側に味方した公家・武士の所領約3000カ所が鎌倉幕府御家人達に分け与えられた。
(写真は鎌倉安養寺所蔵の北条政子像である)


「吾妻鏡」承久三年五月十九日 『北条政子の演説』
「二品、招家人等於簾下、以秋田城介景盛、示含曰、皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍、
征罰朝敵、草創關東以降、云官位、云俸禄其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志、淺乎。而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康胤義等、可全三代將軍遺跡。但欲參院中者、只今可申切。者群參之士、悉應命、且溺涙、申返報不委、只輕命思酬恩。」(下記に現代語訳)



『 格心を一にして聞べし。是れは 最期の詞なり』

故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、その恩すでに山岳よりも高く、溟渤めいぼつよりも深し。 報謝の志浅からんや。しかるに今逆臣のざんにより非義の綸旨を下さる。名を惜しむのやからは、早く秀康、胤義らを討ち取り、三代将軍(実朝)の遺跡を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。

 
 
故右大将家、伊与入道・八幡太郎の跡を継て、東夷をはぐくむに、田園身をやすくし、官位心にまかす事、重恩すでに須弥よりも高し、報恩の恩大海よりもふかかるべし。朝威をかたじけなくする事は、将軍四代の今に、露塵あやまる事なきを、不忠の讒臣等天のせめをはからず、非議の武芸に誇りて、追討の宣旨申くだせり、汝はかならずや。男をばしかしながら殺し、女をば皆やつことし、神社仏寺ちりはいとなり、名称のふしどころ畠にすかれ、東漸の仏法なかばにしてほろぼん事を。恩をしり名をおしまむ人、秀康・胤義をめしとりて、家をうしなはず名をたてん事をおもはずや。』(『六代勝事記』日本の鎌倉時代前期に書かれた編年体の歴史物語である。 ウィキペディア)


また別の記載では分かりやすい文章がある。

『〜 征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。しかるに今逆臣の讒(ざん)により非義の綸旨を下さる。
名を惜しむの族(やから)は、早く秀康、胤義らを討ち取り、三代将軍(実朝)の遺跡を全うすべし。
但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。』

(また、政子は三代将軍の墓所を西国の武士に踏みつけられるならば、存命してもしょうがない、まず私の命をとりなさい、私は頼朝様のところにまいります。)

画は江戸時代の菊池容斎が描く北条政子。

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