1256年 (建長8年10月5日) 改元 康元元年 丙辰(吾妻鏡)

  
 ●武蔵平間郷の地頭
  鎌倉幕府は「奥大道」の沿道に所領を持つ地頭に対して、夜討・強盗が出没しているので取り締まりを命じている。24人の名前の中には、武蔵平間郷地頭とあるが、名前は不明である。武蔵野国では、平間郷(神奈川県川崎市)、矢古宇郷(埼玉県草加市・川口市)、鳩谷郷(埼玉県川口市)、渋江郷(埼玉県さいたま市岩槻区)、清久郷(埼玉県久喜市)の名前が見える。

多摩川南岸の平間あたりは、鎌倉御家人・稲毛重成が伝来開発領主として所有しており、源頼朝の「安堵状」を獲得している。しかし、元久2年(1205)6月22日、畠山次郎重忠の乱が稲毛重成の讒言によるとされたため、稲毛重成一族は滅亡した。墓所は館跡と言われる広福寺にある。 この経過から1256年頃に武蔵野国平間郷の地頭が誰であったか、文献では確認出来ない。
(注)奥大道とは大田区の中原街道である、鎌倉時代は「中路」と呼ばれて、奥州征伐に向かう源頼朝が進軍した街道である。徳川家康も好んだ道である。
 
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