「吾妻鏡」の記述、奥州追悼軍の進路、東海道・中路・下道

文中の説明………誤認している道名
 吾妻鏡が言う 「 東海道」は、文中の地名(行方)でも分かるように地図で見る「下道」である。「北陸道の大将軍比企藤四郎〜下道を經」の下道は、地名から地図で見る上道である。中路は中道である。(『武蔵武士団』関幸彦編 (株)吉川弘文館 2014年)

地図で見る鎌倉道 (注)上記の文章にある住民とは、地方の開発領主である。
鎌倉時代に制定された上道・中道・下道の名称は、頼朝の奥州合戦の頃には、まだ使用されていない 。

源頼朝は奥州合戦を先祖・源頼義・義家親子の前九年の役になぞらえ、進軍の日時や御家人の子孫も従軍させるなど忠実に故事を演出したと言われる。当然、源頼義・義家親子が進軍した道である中路(現在の中原街道)を進む二品(にほん)源頼朝であるが、軍の主力は東海道(下道)を行く千葉介常胤・八田右衛門尉知家である。行く先々で現地の武士を加えて軍勢は24〜28万とも言われる。(実数は疑わしい。頼朝は「この戦いに参加すれば罪は許すと宣言」したので参加者が膨らんだ。)

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