大窪詩佛墓を中央に両側に小川泰堂と小川天佑の墓・小川家墓所

「大窪詩佛・小川泰堂両先生顕彰碑」と平成21年4月に池上本門寺に改葬された「小川家墓所」。右は、大窪詩佛先生の墓を中心におき、左右には小川天佑と小川泰堂の墓。大堂横に顕彰碑と小川家墓所はある。


大窪詩佛……江戸時代後期の漢詩人
 

  明和4年(1767)7月生まれ、常陸の人。名は行、字は天民、通称は柳太郎、詩仏は号である。他に詩聖堂、江山翁、江山詩屋などがある。父・大窪宗春(医者)に従い江戸日本橋銀町に出て医師を開業する。天明末頃より山中天水に儒学を、山本北山や市河寛斎に詩文を学ぶ、新居既酔亭に住む。寛政5年(1793)に山本北山に従い秋田に行く。その秋には第一詩集の『ト居集』を刊行している。寛政12年(1800)には、『詩聖堂百絶』を出すなど各地を歩いた成果である。
 
文化3年(1806)に神田お玉が池(於玉が池)に詩聖堂を造り移り住む、菊池五山と共に江戸詩壇の双璧と謳われる。また、市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と共に江戸の四大詩家と言われた。書は、楷書・行書・隷書・草書を書く、特に草書が得意であり、谷文晁と交わることにより、墨竹画も良くした。文政8年(1825)には、秋田藩に招かれ儒員となる。天保8年(1837)2月21日歿、七十一歳であった。浅草光感寺(浄土宗)に葬られるが、明治10年(1877)に小川泰堂により神奈川県藤沢の小川家墓所に移される。平成20年(2008)に池上本門寺に改葬される。(顔写真・大窪詩佛画像 国史大辞典 第2巻」吉川弘文館 昭和55年刊)

〈著書〉『詩聖堂百絶』(1800年)「詩聖堂詩集」33巻(1809〜1838年)、詩論「詩聖堂詩話」(1799年)、「北遊詩草」など多数。大窪詩佛画像 国史大辞典 第2巻」吉川弘文館 昭和55年刊

ー参考図書 『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館 昭和55年刊、『国書人名辞典 第一巻』岩波書店 1993年刊、『広辞苑 第六版』編者 新村 出 岩波書店 2008年刊、『日本史大事典 第一巻』平凡社 1995年刊、『詩集 日本漢詩 第八巻』富士川英郎・松下 忠・佐野正巳編 汲古書院 昭和63年刊

詩聖堂について
 
『詩聖堂というのは二階屋であって、上には塾生が居り、下には家の者が住んでいた。その頃お玉が池は三、四百坪ほどの池で、池には蓮の花が咲き、まわりには柳が枝をたれていた。池のほとりに翠舎屠蘇という一室を作り、飛石伝いに行く十五、六畳の座敷がある。詩佛はそこに住んでいて、来客と会ったり書画を揮毫したりしていた。後にはそのわきに葺きおろしの八畳じきほどの一室を造って唐石軒と名付けた。ここには唐宋の拓本などをかけておいた。』(『千代田区の物語』小丸俊雄著 千代田区週報社 昭和33年刊)。

お玉が池(於玉が池)について
 中央区の郷土資料室によれば、お玉が池の候補は2ヶ所あるという。ひとつは東京都千代田区岩本町2丁目5番地辺り。

『江戸名所図会』(上の画)
「於玉ヶ池(おたまがいけ)の古事(こじ)」とは、江戸名所図会の本文によると以下のようなことだそうです。昔この辺りに桜ヶ池と呼ばれる池があり、その傍らの桜の木の下で、玉という女性が往来を行き来する人にお茶を振る舞っていました。大変な美人だったため、大勢の人が心を囚われました。そのうち、姿形のよく似た二人の男が彼女に言い寄ったのですが、いずれも甲乙つけがたく、思い悩んだ末、彼女は池に身を投げました。里人が哀れに思い池の畔りに葬った。その後この池はお玉ヶ池と呼ばれるようになった。

神田松枝町は、北の岩井町、東の大和町、西の東紺屋町に囲まれたところである。お玉が池は古くは櫻ヶ池と言われていた。明暦の大火あとに埋められたらしく池はない。ここには名家が数多く住んだ。特に有名なのが千葉周作である。現在、この池が何処にあったか確かな場所は判らない。(『東京名所図会・神田区之部』監修・宮尾しげお 睦書房刊 昭和43年刊)

小川泰堂について……「詩佛・泰童両先生顕彰碑」碑文から

『大窪詩佛(1767ー1837)常陸のひと。名は行。天民、江山翁とも称した。文化文政期の漢詩人で清新な作風は大田蜀山人が「詩は詩佛 狂歌俺」と歌ったほど人気が高かった。雄渾な書と竹画でも知られる。門下は諸侯から市民まで数多く、旧主秋田の佐竹候の招きで藩校日知館の講師を勤めた。著書に「詩聖堂詩集」「北遊詩草」等。天保八年二月十一日歿。寿七十一。小川泰堂(一八一四――七八)相模国藤沢の医師小川天佑の長子。江戸に出て大窪詩佛のもとで医学柔術雅楽などの諸学を修めた。二十五歳の時、日蓮聖人の遺文に接して当時異本の多かった遺文の校訂を発願し、以来三十年の歳月と私財を投じて「高祖遺文録」三十巻の刊行を」果たした。これは明治以降に刊行された遺文集の基礎となる根本聖典となった。家業の医業では父の遺志を継いで一万五千人の貧者の無料診療を達成し、安政大地震や小田原の災害には門下を連れて救急治療を行い、郷土の経済発展に尽くすなど社会活動は多岐に亘った。著作は「日蓮大士真実伝」「我が棲む里」「四歳日録」など多数。明治十一年十二月二十五日歿。寿六十五。泰堂は晩年妻八万(詩佛次女)の請いをいれ詩佛の墓を浅草光感寺から藤沢の小川家屋敷墓地に移したが「師恩は父恩にまさる」と墓地の中央に据えた。時遷り平成十八年小川家墓所を移送する際、当山においても故事に倣い墓域の中央に詩佛、左右に天佑と泰堂を配した累代が並ぶ。日蓮聖人の教えが世界中に流布することを願った泰堂の生誕二百年にあたり、両大人の偉業を讃え慈に顕彰するものである。』
   
泰堂辞世 
いくたびかたちかえりみむみな人の
       くるしきうみにしづむかぎりは
平成二十六年甲午歳三月二十一日   大本山池上本門寺第八十二世 日慈代健之 根方林昌寺住職 松下日雄題

「池上のご霊宝と文化遺産 165」より

 


  大窪詩佛 の書は楷書、行書、隷書、草書とどれも良くするが、書幅では草書が多いようである。右の書幅は叢書で書かれた「余慶」である。儒教の経典である『易経』から取られた一節である。雄渾で素晴らしい書である。

 池上本門寺の「大窪詩佛のコレクション」は、俳優で美術評論家であった渥美國泰氏(1933〜1985)(顔写真)が集めた大窪詩佛のコレクションを、縁あって林昌寺住職松下正雄師が感得され池上本門寺に奉納した次第です。コレクションは書画85件(90点)と墨竹画も含む充実したものです。

小川泰堂(おがわたいどう)(1814−1878) 
  江戸後期-明治時代の医師,日蓮研究家。文化11年3月21日生まれ。江戸で医学を辻元?庵(すうあん)にまなび,天保(てんぽう)7年神田で開業。9年日蓮の遺文をよんで感動し,日蓮宗の布教と遺文の校訂につとめ,慶応元年「高祖遺文録」30巻を完成させた。また郷里相模(さがみ)(神奈川県)藤沢の経済発展のため,現金元値市をひらいた。明治11年12月25日死去。65歳。通称は泰二郎。(日本人名大辞典)

小川泰堂の 著した『日蓮大士真実伝』5巻 慶応3年(1867)は、幕末維新期の祖師伝記本として有名で、当時のベストセラーとなっています。そこには、祖師の時代(鎌倉時代)に限ることなく、法華信仰が高揚した近世後期の江戸に祀られた三カ所の祖師像の霊験が記されています』、小川泰堂は天保7年(1836)に江戸で医者を開業する、9年に浅草蔵前の古本やで日蓮遺文集と出会い感銘を受ける、日蓮信奉者となり『高祖遺文録』定本(明治9年)を上梓する、この本は日蓮聖人研究の底本となる。(『江戸の法華信仰』望月真澄著 国書刊行会 平成27年刊)詳細ページ

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