明治維新の負の歴史面を探る
お雇い外国人
の功罪

日本美術品の流失とお雇い外国人
 
  大田区の史跡や歴史を調べるうちに、江戸時代末から明治初期にかけて日本の国宝級の美術工芸品や民俗品が、数多くが流出している事を教えられました。幕末にはポルトガルを始め、イギリス、フランス、ロシアなどヨーロッパの列強が日本を開国させ、植民地にしようと考えていました。
  彼らは日本の争乱状態に乗じて開国を迫りましたが、意見のまとまらない徳川幕府は、開国には至りませんでした。しかし、アメリカのペリー提督の強圧的な黒船来航により開国、その後の混乱を経て江戸幕府は260年の支配から政権を返上したが、薩長連合の武力クーデターで倒れました。この時、イギリスは政権を返上した徳川幕府を攻撃することに反対でした。

 明治政府は近代化を急ぎ、江戸時代の体制を大きく変えました。王政復古もそのひとつであり、神仏習合の歴史を否定して神仏分離を国の方針としました。現実の宗教改革による民衆行動としてあらわれたのが、廃仏毀釈でありました。これに前後した諸通達も寺の生きていく糧(所領)をとりあるなど強引なものでした。
  その結果、全国で寺の略奪や荒廃を招き、数多くの寺から仏像・経典など寺宝の破却、持ち出し、売却・流失の事態を招きました。貴重な仏像が価値のないゴミとして野に捨てられたのです。驚くことに経典は焼かれ、文字に遣われた金(金箔)のみを取り出そうとしたのです。興福寺などの五重塔も焼かれようとしたのです。
  その後の廃藩置県で家禄を取り上げられた旧大名家からも、生活のため代々伝わってきた多くの美術・工芸品が売られていきました。
〈フェノロサが来日した頃の日本〉
    当時の日本の状況はどうか、慶応4年(1865)の神仏分離令に始まり、明治5年(1872)の上地令により収入を絶たれた寺の経営は逼迫した。その状況もやや落ち着き、改善を見せ始めた頃である。
日本でお雇い外国人が最盛期だったのは、明治7年(1874)頃である。明治12年(1878)から、お雇い外国人の現象は変化を見せ始めた、国粋主義の台頭で、時代は外国人一辺倒から変化し始めていた。
写真 アーネスト・フェノロサ アーネスト・フェノロサ(1853-1908)
 彼の来日は、明治11年(1878)であり、『大森貝塚』の発見で有名なシルベスター・モースの紹介によってである。彼に求められたのは東京大学で理財学、ヘーゲル哲学の講義であり、後には論理学の講義もおこなっている。また、当時では宗教界から異論の多かったスペンサーの進化論も抗議している。

 この頃、日本の社会は騒然としていた。西南戦争が終わり士族の不満も弾圧された。しかし、政府への不満が解消されたわけではなく、形を変えて見えなくなっただけである、その一つの現れが、5月に暗殺された大久保利通の事件である。維新当時の外国崇拝が、植民地になるかもしれないという恐れから、徐々に国粋主義的流れに向かっていった頃のことである。
そのため、明治13年(1879)頃になるとお雇い外国人は半減した。その理由は、西南戦争で政府の財政が逼迫したこと。また、外国留学した日本人が帰国し始めて現場にたち始めたからでもあろう。

〈フェノロサと日本美術〉
    フェノロサが日本美術に興味を持ったのはいつか、来日した頃の日本では、明治維新以来「お雇い外国人」の中で日本の美術品を集めるのが流行していた。それらを母国に持ち帰れば、結構なお金になったのである。

 明治13年(1880)にフェノロサは、岡倉天心、有賀長雄を助手とした。来日当初は洋画の振興も試みたが、しばらくすると大和絵系住吉派の住吉広賢、山名貫義、狩野探美らの日本画家に接し、奈良や京都にも旅行している。この頃に、尾形光琳の六曲屏風を買っている。
 
 1883年、アメリカの医者で富豪のビゲローが手紙で書いている、
『1868年の維新以来、価値ある美術品が大量に市場にでたのは、二つの原因による。ひとつは経済的に逼迫した貴族層が値段の見境なく売り出したから、もう一つは日本人の間に突発した外国崇拝マニアである』。

 
文部省の図画教育調査会委員になり、東京大学よりも文部省と宮内省の仕事に傾いていく、研究のために「正倉院御物調査の政府委員」という肩書きを持つに至ったのである。この肩書きは強力で、明治15年(1882)の旅行では、奈良の法隆寺で一度も開けられたことのない「夢殿の秘仏」を開帳させた。

法隆寺側での記述によれば、
  『明治17年8月16日、東京大学教師 米国人フェノロサ、同国ボストンのドクトルビゲール、岡倉覚三(後の天心)の三名が当寺古器物調査のため来山』となつている。
彼が与えた大きな影響は明治15年5月、東京上野にあった教育博物館において竜池会を開き、講演したことである。このときの講演はすぐに翻訳され『美術真説』と題されて出版された。明治維新以来、洋画に傾いていた絵画の世界に日本画を見直す機運を作り出したのである。
日本の近代化に貢献したお雇い外国人
 
  この時代背景に登場したのが、近代化のため日本にやってきた「お雇い外国人」だったのです。彼らは、日本政府が殖産興業の技術導入めざして諸外国から招聘した外国人です、報酬も高くて明治政府高官と同額かそれ以上でした、その上にインテリで美術品価値が理解できる人達でした。大森駅もお雇い外国人のため開設された駅でした。
 
  彼ら「お雇い外国人」達は、専門分野で功績を上げると同時に、余暇には日本美術品にも興味を示し、そこに価値を見いだして収集を始めました。高額な報酬の彼らは、廃仏毀釈により廃棄されたか、二束三文で売られた、御雇外国人は、仏像などの美術品を積極的に買い集めたのです。日本人が自分たちの美術品に価値を見いださないため、美術品は驚くほど安く買われ海外へ流失していったのです。
  現在、世界中にある日本美術館は、この時の個人コレクションが基礎となり始まっています。特に浮世絵は、初期の名品や写楽などほとんどが海外に流失して国内にはなく、現在ある初期から中期の浮世絵は後から買い戻した作品です。しかし彼らが集め、保管にも力を入れたため良い状態で残っていることも事実です。

  特に浮世絵など、江戸時代は美術品と認められなかった物(民俗品・浮世絵等)が残ったことは感謝すべきでしょう。その例がアメリカのスポルディング兄弟の浮世絵コレクションです。このコレクションは保存状態が極めて良く、浮世絵コレクションでは最も摺当時の色が残って居ます。兄弟からの依頼で日本において浮世絵を集めたのが、フランク・ロイド・ライトです。詳細を見る

 彼らの感化を受けた岡倉天心達が、日本美術品の海外流失を防ぐ運動を始めるまで、数多くの美術品が海外へ流失しました。それらの過程を見てゆきたいと思います。当時の資料が不足のため、今もどれだけの美術品が流失したか不明です。調査が進められていますが国の積極的な関与が必要です。浮世絵についても良い物は外国にあり、高額(高値)で買い戻している状態です。


西洋に根付くコレクションの伝統
 
  西洋には古くから珍しい物を集めて、それを分類して展示するという伝統がありました。初めは王侯貴族・協会の宝物館でしたが、交易が盛んになり富を得た商人が珍しい外国の物を集めました、香辛料を求めた大航海時代は富(黄金)と珍しい動植物を求めた時代でした。個人が集めた物を基礎にした博物館の誕生です。これらの伝統がお雇い外国人の意識背景となっていたと考えられます。

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