ー名所絵図に見る大森・品川の海苔養殖場ー


東海道名所図会 安政9年(1797)巻6 国立国会図書館デジタル化資料所蔵


画中に書いてある文……

 『浅草海苔を取る(時)は大森より北品川までの渚にて、秋の彼岸より春の彼岸まで取也、浅き所は歩行にて、深きところは舟にてゆき十町二十町あるいは一里も出て、ヒビという物を海底へさし込み、満潮につれ、海苔これにとどまるなり、寒中に取を最上とす、至って美味なり。』(読みやすく現代文にした)

 上記の文で海苔を取るまでの行程は分かる。採取した海苔を舟に積み浜辺の作業所に帰る。下が作業風景である。ヒビはケヤキ・ナラ・クヌギ・竹の枝束を束ねたものが古来より使われた。昭和時代になり戦後あたりから網がつかわれた。
 上の絵はヒビ場・柵場・丁場と言われた。この柵の大きさは、長さ50メートル、幅3メートルぐらいで、これを1柵と呼び海岸線に平行して60から100ほどまとめて「1キレ」とした。キレとキレの間には船の通り道とした。(前のページ参照)


東海道名所図会 安政9年(1797)巻6 国立国会図書館デジタル化資料所蔵

画中に書いてある文……
 海より取りし海苔を磯辺にて汰(タイ) 、塵をより、包丁にてよく敲き、それより簀(す)へ薄く漉き、流し干乾かすなり、世人品川海苔といわずして浅草というは、むかし浅草にても取しにや、津の国須磨の浦の塩焼きは、世に名高く古歌も多し、今は遠浅になりて塩も汲ず、塩竈もなけれども、須磨浦の塩汲む、海女画にも書歌にも詠まれるは、此たぐいとやいうべき。
(読みやすく現代文にした) 注・汰(タイ)とは不要なものを流れ落とすこと

海苔の制作過程
 
画中うしろの斜めに干しているのが海苔簀(す)である。葦簀(よしず)を斜めに立てかけたものである。干す時間は天日干しで早朝から昼過ぎ頃までであった。昭和になると乾燥場をつくりストーブで乾燥した。また、この頃から格子状に組んだ「乾し枠」(木枠)が用いられた。

海苔場には使用権があり浜株と称した。 江戸時代は個人に浜株が与えられたが、明治になり組合に浜株が与えられ組合共有場となり、これより2種類の海苔場が出来た。個人の浜株は売買の対象となった。その後、昭和16年頃(1941)に京浜運河の開削により全て買い上げられ組合共有株となった。海苔場は丁場ごとにまとまり作業を行った。しかし、場所により海苔の出来具合が左右されるので、組合共有場は抽選で丁場を決めた。江戸末期、大森の場合には22場所ほどの数があったが、昭和時代には40ぐらいに増加した。東京湾大森の海苔漁業は昭和38年(1963)春をもって終焉した。

江戸名所図会 斉藤幸成著 長谷川雪旦画 天保5(1834)から7年 巻2 
国立国会図書館デジタル化資料所蔵

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