ー馬込村増上寺の寺領を示す古地図……江戸後期天明7年(1787)頃ー

「馬込村色分惣絵図 全」加藤誠太郎氏 所蔵 大田区立博物館  赤丸は馬込八幡神社

増上寺『台徳院・崇源院』(二代将軍秀忠夫妻)の御霊屋おたま料とは
 
  徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、寛永9年(1632)没後に院殿名を贈られ「台徳院」となる、秀忠夫人は寛永3年(1626)没後「崇源院」となった。これに伴い慶長17年(1612)、すでに増上寺に寄進された1000石に加えて、寛永9年(1632)秀忠夫妻の南霊屋みなみのおたまやの造築に伴い、新たに4000石が寄進され、21ヵ村・総額5000石となった。三代将軍家光の命による。その内訳は、荏原郡9ヵ村、筑紫郡7ヵ村(川崎)、橘樹郡4ヵ村(川崎)、豊島郡一ヵ村である。
   馬込 388石
   中延 102石413斗
   堤方 351石238斗
   下目黒 187石
   中目黒 187石
   蓮沼 229石945斗
   碑文谷 13石 
 以上が 武州荏原郡の御霊屋料である。中でも馬込領が一番多い。後に宝永2年(1705)桂昌院・清揚院、正徳3年(1713)文昭院。享保2年(1717)有章院の御霊屋が加わり、増上寺領は10,540石になり、上野寛永寺(1700石あまり)を遙かに上回る規模になった。武州荏原郡で加わったのは、徳持寺、上北沢、御園、雪ヶ谷、上目黒の約876石である。

地図の説明…現代地名との比較
 
  薄い茶色部分の大部分が、388石を納める増上寺御霊領で、家が描かれており絵図の多くを占める。388石は御霊料を納める21ヵ村の中では、馬込が一番であり幕末(明治元年)まで納めた。 赤丸が馬込八幡神社と長遠寺である。左側は宮下から下へ塚越、現・西馬込1・2丁目で、昔の塚越神社(稲荷社)は南馬込6丁目となる。地図右下は左から桐ヶ谷、市の倉、新井宿である。市の倉の右上は、現在の臼田坂の途中にある観音堂である。八幡様の右側は現・南馬込1〜6丁目になっている、南馬込1丁目は天沼・寺郷あたり環七の外側である。天沼の下にあるのが川瀬巴水の「馬込の月」で有名な天祖神社であろう。八幡様右側は、現・南馬込1丁目、昔は久保・北久保であり神明社がある。その下は万福寺でその前に6石の万福寺領がある。その外に幕領258石がある。

 万福寺から右下は、現・南馬込4〜6丁目になり、桐ヶ谷村の上が、現・都営地下鉄操車場・工場である。昔は、将監谷と言われたらしいが確認する資料はない。新井宿村の上、平張あたり濃い茶の部分が、天正18年(1590)徳川家康が入府した時に、旗本木原因幡守吉次に与えられた木原領(235石)の一部である。注意しなければならないのは、茶色部分には山地も含まれ、米作に適さない土地も含まれる事である。
 中原街道の左側部分は 、現・南千束1〜2丁目で昔の馬込村である。洗足池があり、その下の一部、雪が谷村を含む。
 
(注)
増上寺史料では御霊屋料を「おたまやりょう」と呼んでいるので、「みたまやりょう」ではなく「おたまやりょう」と呼ぶ、(注)加藤誠太郎氏は、木原領の名主を務めた家である。

馬込村増上寺領の土地を示す絵地図
 
  地図上、左を上下に貫く道が中原街道である。馬込村は、池上付近から現在の北千束・南千束を含めた大きな村であった。絵図の薄いクリーム色部分で家の形があるところが増上寺御霊屋領(おたまやりょう)を示す。

『増上寺領は、方丈領・隠居領・安国殿領は方丈支配、諸御霊領は輪番支配である』『御霊領には、古領・新領の別がある』『古領とは、寛永十一年に寄進された台徳院・崇源院御霊領十二カ村をいい、それ以降、寄進された御霊領を新領といい区別している』(『増上寺史料集 第八巻』大本山増上寺発行 増上寺史料編纂所 続群書類従完成会発売 昭和59年)、馬込村は二代将軍秀忠・台徳院の御霊領として、寛永11年(1634)5月23日に寄進された、毎年388石を納め、寛永から安政2年までの記録が増上寺史料に記されている。
 
  馬込村は『旧高旧領取調帳 関東編 日本史料選書』(木村 礎著 近藤出版 1980年刊)によると、幕領258石、旗本木原領312石、増上寺領388石、万福寺領6石の相給地である。4カ所に支配される村である、中でも木原領は義民六人衆で知られているが、馬込に増上寺領があったことはあまり知られていない。図の中で赤丸が馬込村鎮守様八幡神社である。


増上寺の馬込村支配の様子
 
  増上寺に388石(388俵の米)を毎年納める。助郷役・鷹狩人足・国役金等の負担は免除され、代わりに御用米人足・草刈人足など村から人馬を提供する。具体的には年貢を運ぶ御用人足、真乗院・瑞連院などと、増上寺宿坊の泊まり人足などである。金納化された課役には、水夫給(年貢米運搬時の船頭へお金)・箒(ほうき)・増上寺から村に通達を運ぶ人足代などがある。これらは「十七箇条の定書」(川崎の王禅寺にだされたもの)によるものと同じと考えられる。実際、支配に当たったのは「輪番」と言われる寺僧で、その下に実務をする地方調役(じかたしらべやく)・地方勘定役がいた。
  地方調役(じかたしらべやく)は、寺領諸村の巡回、領内の調査や取り締まり、年貢収納の監督などの仕事で2名が選ばれた。また俗人(村人などから選出か)から、輪番附小役人・蔵番(輪番役人の下役)が2名選ばれた。私は西馬込中丸の河原氏も、これらの役を務めたのではないかと考えるが、それを示す具体的資料はない。

 上記の地図を作ったのは、旗本木原領の名主・加藤家であるが、増上寺馬込領の名主が誰であったか、確かな記録はない。増上寺史料には、「馬込村名主 彌五左衛門」(元禄4年)、同人は池上本門寺前名主としても登場する。下記、慶応元年奉納「馬込八幡神社」狛犬台座にある名前の中に増上寺課役を務めた人間がいると考える。(「太田区史 中巻」大田区発行 平成4年)

 《17条の定書》寺領支配の様子
  • 01.公儀法度の遵守
    02.一味徒党の禁止
    03.公儀よりの触・配布の迅速な伝達
    04.毎年六月中の宗門人別帳の作成
    05.田畑永代売買の禁止
    06.潰れ百姓が出たあとに新百姓を仕付けること
    07.年貢米を極月六日までに皆済すること
    08.年貢米を霜月中に納入すること
    09.年貢米納入以前に他所へ新米を売ることの禁止
    10. 年貢が納入出来そうもない百姓がいた場合、名主・年寄りが相談の上、その百姓の諸作立毛を差し押さえること
    11.年貢納入に際し、無手形の取引をしないこと
    12.田畑境・村境の争論の禁止
    13.治・利水施設の保持ならびに道橋の修復
    14.村々の出入りの回避
    15.博打諸勝負の禁止
    16.諸事心付けに過分の儀が無いようにすること
    17.地借・店借の届け出

    以上は正徳三年 (1713)11月5日に王禅寺村に出されたものであるが 、寺領の基本的な定書であると考えられている。(太田区史 中巻)

 増上寺と馬込村の結びつき……
 
『諸村では報恩のため、毎月台徳院・崇源院(秀忠の妻)の命日は農業休日と定めて村ごとに集まり念仏を唱えることにし、他村なみの諸役が免除される特権が与えられるようになったのである。』(「江戸近郊農村と地方巧者」村上 直著 (有)大河書房 2004年刊)
この文章から想像するに馬込村と増上寺の結びつきは、現在の我々が考える以上のものであり、その関係から大名屋敷門の仲介・購入話があったのではないかと考える。


金融機関としての増上寺 ……次ページに詳細
 
  江戸時代には現在のような金融機関はなかったが、多彩な金貸しがいた。時代劇で有名な「札差」「大名貸し」は勿論のこと、士農工商の身分により違う金融業者(金貸し)がいた。武士は札差から米を担保に金を借り、町民の場合には色々な金貸し「烏金」「車借金」などの高利貸しがいた。また、あまり知られていないが、寺も有力な金融業者であった。
  寺は農民から土地を担保に金を貸した。当然なことに、増上寺領の馬込村なども増上寺から金を借りたであろう、この時に、増上寺と農民との間に立ったのが増上寺貸附所である。実務を行ったのは、増上寺輪番の寺から委託を受けた村の輪番附小役人である。おそらく、この役を受けたのが、中丸の河原七左右衛門氏達(名主)
ではなかったかと考える。また、出資金として増上寺に出し利益を得たと言われるが、確かな史料はない。

御霊屋奉仕寺院住職を御別当職という。
 
  増上寺には八ヶ院ある。安立院、宝松院、恵(後に大)眼院、最勝院、真乗院、瑞蓮院、仏心院、通元院である。二代秀忠公に関連するのは宝松院と恵(大)眼院の二子院である。

『二院の住職は御別当と呼び、その御霊屋料から御配米百五十石(三百七十五石)、月割約三十俵余を賜わり、御霊屋の清務に専心奉仕したのである。御別当職には、その外に諸法要に当たっては、不時の収入があり、宿坊として佐竹右京太夫外十一大名の手当もあった。別当職を助ける者を「手代り僧」と呼び、二名がいた。彼らは衣料金十五両をいただいていた。他に御番僧十名がいた。彼らは、衣料米として一名二十石(御十俵)を受けていたのである。しかして屋敷をいただき熨斗(のし)目着用であった。』

『また、大眼院の由緒寺院であることは、徳川御三家の(一)水戸家外八大名の宿坊寺院であったことによっても了知される。』『御配米御別当職に百五十石(三百七十五石)あり、その代役(手代り僧)に衣料金十五両宛僧二名、衣料米二十石(五十俵)づつの僧十名、御掃除頭配当米五十石あて二名の係役があったのである。』  (『増上寺史』村上博了著 大本山増上寺刊 昭和49年(1947))



《馬込八幡神社狛犬の願文、慶応元年(1865)》
 
馬込八幡神社は馬込村の総鎮守様である。狛犬台座の裏側に地元村々の代表者名が載っている、名字帯刀を許された三村の名主達である。平張が中心で奉納されたようだ。平張は増上寺馬込領の中心的役割を担い、加藤藤右衛門は輪番附小役人の様なまとめ役であったと考える。名前の中に「中丸 河原七左右衛門」とあるのが、中丸(現西馬込)を代表する河原氏かもしれない
。狛犬の奉納は幕末慶応元年(1865)であり、まだ増上寺支配は続いていた。

馬込八幡神社  慶応元年(1865)地元・三村氏子達の奉納である。

狛犬の台座にある刻印、左狛犬
奉納 慶応元年(1865)
根古谷(ねごや)鈴木平吉
根古谷 加藤高五右衛門
中丸  河原七左右衛門
平張  加藤庄右衛門・加藤半右衛門・加藤○○○門・加藤権十郎・加藤重治郎・加藤平十郎・加藤太左右衛門・山崎市右衛門・山崎彦右衛門・加藤武兵衛・加藤権兵衛
   願主  加藤藤右衛門
狛犬の台座にある刻印、右阿像
臼田又右衛門・臼田善五郎・臼田甚右五郎・臼田佐古右衛門
       
金子徳兵衛・金子平三郎・平林権四郎・山崎七郎左衛門・金子傳右衛門・
金子郷右衛門・金子善十郎・金子善四郎・加藤友右衛門
   願主  加藤藤右衛門

  増上寺馬込村御霊領(江戸から明治)

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