<
地券発行……地租上納の実施、米から貨幣経済へ移行
武家地・町地の名前(呼称)をやめる


明治4年(1871)9月4日、東京府は、東京府内の家税を廃止して、前から無税であった武家地、社寺地、江戸より無税であった朱引内の町地も地租を取り立てることを予告した。これは「天下無税の地あるべからず」という考えに沿った東京府の決断である。
  

明治政府の賛成を受け、家税を廃止して地券発行地税徴収を決定した。武家地の地代徴収(同年6月)1年あたり100坪の地代。
   

     金一両   木挽町 八丁堀 浜町 内神田

金三分二朱 築地 麹町 愛宕下 虎ノ門外 

金三分   小川町 駿河台 飯田橋 外神田

金二分二朱 下谷 浅草 湯島 本郷 番長

金二分   小日向 牛込 市ヶ谷 四谷 三田 

明治5年(1872)2月10日、東京府全管内に布告され、低価で払い下げられた官員の住居にも地税の網が掛けられた。(特例有り 拝領の一カ所は上納しなくてもよい)これより藩邸も入札で売ることが出来るようになった。華士族拝領地も払い下げるには、地券発行係に願い出ることとなり、土地処理が一部で騒ぎとなった。政府は公平な評価を行うことを官員に徹底した、不安定な明治政府は、民心の不満が起こることを恐れたからである。
   ↓

明治6年(1873)、地券発行による低価払い下げと同時に、武家地・寺社地・町地の区別を廃止した。1000坪の払い下げ価格

  25円 木挽町 築地 八丁堀 浜町 麹町等
20円 小川町 駿河台 番長 下谷 浅草等
15円 小石川 根津 牛込 四谷 青山 三田等 と今から考えると夢のようである。
東京は明治8年(1875)から13年(1880)にかけて行われた。
参考 『江戸時代の江戸の税制と明治六年地租改正法』土方 晉 
株式会社税務経理協会発行 平成16年 発売

《地券発行後の武家地の変化》
 

  武家地に町名が付けられ、地税のための土地評価が進められた。武家地は府内中心の市街地となり、明治6年(1873)から7年(1874)頃まで要した。その周辺部と言うべき郷村地は、明治13年(1880)頃までかかった。また、官有地も借用ではなく、買い上げることが必要となる。政府官員の住居も低価で払い下げられ、地税を納めることになったが、東京が発展していく過程で、低価で払い下げられた土地が高騰していった。買いしぶる人がいた明治初年頃では、予測できなかった出来事である。

  
 土地の価格目安は、上等地一千坪25円、下等地一千坪20円以下で払い下げられた。東京府の様子を旧幕臣が回想している。それによれば『最上等で坪56円、最下等で坪50銭、水はけの悪いところでは坪10銭であった』、『銀座は坪23円、日本橋坪33円』と土地の高騰が始まった
  

千代田・文京区・港区の各区史でも武家地へ、町屋の進出が見られたと記載されている。

武家地も所有者(華族の私邸や藩の所有)が不要であれば、入札による売却を勧めている。これらの流れにより、明治7年(1871年)頃には、武家地の地券発行がほぼ完了したようである。地租改正で、税金徴収に目処が立った明治政府は、長年の資金不足から逃れることが出来る見込みがたち、国家が安定に向かうことが可能になった。

佐伯藩上屋敷はどうなったか…………
 文献資料はないが、明治16〜17
年に測量され、明治20年(1887)に出された参謀本部陸軍部測量局制作『東京五千分の一実測図』を見ると、佐伯藩上屋敷は大名屋敷の形状を残している。(廃藩置県などで私邸となっている)

明治30年頃、東京は戦勝に沸き再開発が活発になる
  『明治前期には皇居西側の大規模武家地のうち、少なくとも4分の1が耕作地化していたことが明らかになった。』(注1)、明治初年からの都市開発は東南部から始めまった。西南部が注目されてきたのは、おそらく明治5年の大火で郭内の軍事施設が焼失して移転を考え始めた頃からであろう。しかし現実は予算不足で、明治20年頃まで移転の動きはなかった。しかし桑茶政策で耕地化した土地が東京に流入する人口の増加により必要になり、周辺から都心へ向かって住宅化していった。明治45年に東京の人口は明治維新直後のほぼ5倍近く262万となった。
 
  明治23年(1890)、丸の内が三菱に売却され、官庁や軍事施設が西南部などに移転を始めた。日清戦争後、明治30年(1897)頃には皇城近くの再開発が活発になった、低所得者向けの小さな区割りの宅地開発である。華族になり大名屋敷を拝領した都心の屋敷は、道が広くなり交通も便利になったおかげで都心を離れても、快適な生活が出来るため、やや郊外へ移転を開始した。
 
  大名屋敷はどれも広大で、佐伯藩上屋敷でも4千坪を越える広さである、下の地図で分かるように、佐久間町一帯の大名屋敷も全て町屋化している。また地租改正の動きも広大な土地を所有する華族達に、土地売却をさせる大きな要因となったであろう。この時代の流れに沿った形で佐伯藩上屋敷も売却されたと考えるが、ここにあった大名屋敷門は、旧藩債務を全て無効とされた増上寺が少しでも資金回収するために、馬込の河原氏に購入させたとの大胆な仮説もあり得る。

(注1)参考『明治初期における武家地の耕作地化が近代東京の市街地形成に与えた影響』柚木秀恵著 東京大学大学院修士論文



  上記の地図は、明治45年頃の佐久間二丁目である。(地籍台帳の地図)
地籍台帳(南佐久間2丁目)のリスト、購入者の 氏名住所などが纏められている。
右は国立国会図書館デジタル化資料の 地籍台帳(大正1年)収録の地図 拡大表示

 
  ー地籍台帳地図の説明ー
赤枠が、佐伯藩上屋敷の跡地であろう推定場所、佐伯藩毛利高謙(たかあき)12代が、明治2年(1869)に版籍奉還し知事に任じられる。明治9年(1876)に37才で死亡すると、養子高範を迎える。屋敷は高謙の時に藩私邸として頂いている、
 
  明治9年(1876)の「明治東京全図」(市原正秀)でも高謙が土地所有者として記載されてある。毛利高範が明治17年に子爵を授けられる。大田区下丸子の蓮光院が佐伯藩上屋敷なら、明治31年(1897)馬込中丸の河原氏に屋敷門を売却したのは、毛利高範氏の頃であろうか。 上記地図は明治45年頃の佐久間二丁目である、地籍台帳に掲載されており、現在の公図と同じであろう。昔の境界が不明なほど、小道が造られ町地化が進んでいる。


明治45年(1912)頃の土地台帳・復刻資料  『地籍台帳・地籍地図〔東京〕(全7巻)』編者 地図資料編纂会 発行者 高橋 満 柏書房(株)1989年3月20日発売。

 内容『東京市及接続郡部地籍台帳』『東京市及接続郡部地籍地図』(東京市区調査会,1912年刊)の完全復刻。関東大震災によって大変貌を遂げる直前の東京を土地所有者名簿と地域別所有状況およびその地図(約1千分1の特別大縮尺地図)で伝える。

注意しなければ成らないことは、明治45年(1912)の発行は、明治4年(1871)地券発行後の地券を集めたものであり、地券を集めた原本の日時が不明なため、土地取引がいつ行われた特定できない。あくまでも地籍台帳が明治45年(1912)の発行であることである。自分の住む地区が明治の頃どうであったか、見ることも面白い、同地図以外にも数種の地図が載せられている。

国立国会図書館デジタル化資料 『地籍台帳』
          上巻本文→
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079  (上巻にあり)
          下巻本文→ http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966080 

コラム 「地籍台帳」を 調べていて気づいたことがある。大正3年(1914)、ドイツシーメンス社から巡洋戦艦「金剛」発注に関する軍部の賄賂事件である。第一次山本内閣が総辞職になった。長州閥の長老として軍部に影響を与えた山県有朋が、早くから土地取引に登場するのである。彼は、自分とは関係の無いような都心の土地を買っている、値上がりを期待した不動産屋の様である、日本人の土地神話の始まりを見たような気がする。

大名屋敷門目次