誰がいつ付けたのか、大名屋敷定紋(丸に桔梗)から推理する定紋から判明する小島藩(1万石)と掛川藩(5万石)


文献資料から考察した蓮光院大名屋敷門は、『芝白金早道場(今里村)の長府藩下屋敷門』とほぼ断定してみたが、驚くべき事実が判明した。下丸子蓮光院の大名屋敷門に定紋(大名の家紋)が付いていたのである。(写真参照)


写真定紋 丸に桔梗
確認するため、定紋の写真と屋敷門 ・瓦の定紋などを「静岡市 生活文化局 文化スポーツ部文化財課(文化財保護担当)」の担当者にメールして確認をお願いした。

担当者の返事では『定紋は小島藩で間違いないが、同じ定紋を使用している藩がある。同じ駿河の大名 掛川(遠江)藩太田家五万石・譜代大名である。写真だけではどちらの藩か確定できない』と回答があった。

丸に桔梗」の定紋
この定紋は譜代大名 小島藩松平(瀧脇)家一万石の定紋である。駿河(現在の沼津)城はなく小島陣屋があった。
同じような定紋を譜代大名掛川藩太田摂津守(5万石)が使用している。


江戸時代 大名屋敷門に定紋は付いていなかった。
 品川区歴史博物館に定紋の件を訪ねると『大名屋敷門に定紋は無かった 』と言う、私も他の資料で確認するとそのように考えるのが定説である。では、誰がいつ、何の目的で定紋を付けたのか新たな謎である。門の屋根や塀の瓦屋根は「葵の紋」(松平家)で埋められている。(写真参照)この紋は小島藩松平(滝脇)家か謎である(後述判明)。

この定紋は、『明治になり売るために、藩名(大名名)を明らかにするため附けられたのではないか』と御指摘を頂いた。確かにその可能性があり得る。
 
  明治時代から大正時代は、今からでは想像できないが建物の移動が盛んで、移築専門の業者がいた、木材が貴重なために移築専門業者『あげや』(現在では曳き屋と言うようだ)がいたようである。解体せずに家全体を持ち上げ、道路にレールを敷いて移動した、近距離の移動である。これらの業者は昭和初期頃まで存在したようだ。大名屋敷は藩地産の良材を使っていたため人気があったと考える。現在でも重要文化財などの移動に活躍する。大名屋敷門は分解して移築されたようだ。再構築の時に足りない部材や瓦などは別の物を使用した可能性は高い。(参考図書 「家が動く!曳家の仕事」一版社団法人 日本曳家協会編 発行 南風舎 発売 相模書房)


小島藩松平(瀧脇)家1万石について……
 現在の住所 静岡県静岡市清水 庵原郡小島である。小島陣屋跡が国指定の史跡となっている。
 江戸藩邸 上屋敷 小石川富坂下 3,175坪
       下屋敷 目白台 3,396坪
       下屋敷 本所南割下水御竹蔵脇 343坪
              安政2年(1855)の資料

 この藩は、寛政の改革を風刺して弾圧を受けた恋川春町( 黄表紙作家)がいた事で知られる。恋川春町は小島藩の江戸詰用人であり倉橋 格(本名)である、彼は『鸚鵡返文武二道』(1788)を表し、松平定信の文武奨励を風刺した事で有名である。後に松平定信に呼び出されたが、これを拒否した、病死したが自殺とも言われている。当時は、譜代大名の家臣が起こしたスキャンダルとして、世間を騒がしたことであろう。

慶応4年(1868)徳川家が駿河に移るに従い「金ヶ崎藩」を立藩する、しかし明治2年(1869)三月、上総国望柁郡貝渕村に陣屋を移して「桜井藩」を立藩する。
 明治元年の大名屋敷整理では、明治政府の方針で朱引き内の藩邸は残した、おそらく上屋敷を残したのであろう。
  廃藩置県(明治4年)では上地(あげち・政府に戻す)して、屋敷は桑や茶畑となった。しかし気候が合わずに枯れてしまい、2年間で中止された。


屋根や塀の瓦に付いた定紋は、小島藩藩主松平家「葵の紋」を示している。確かに滝脇松平家紋かは分からない、調査が必要である。(右写真参照・塀の角と屋根の家紋)江戸時代、藩邸の木材・建築部材は全て地元藩から江戸の運び込んだらしい、部材等で判明することがあるかも知れない。


写真 下丸子蓮光院

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江戸の衰退……東京府(慶応4年八月十七日)を開く
 江戸は武士の町であり、武家地が七割を占めていた。明治維新は、江戸から武士の大多数が故郷のに戻ったり、徳川家は、駿河(静岡)に移封、家臣も多くが従い移り住んだ。そのため急激な人口減少(50パーセント)のため商売の落ち込みが始まり、また、大名屋敷の廃止と、上地を行なったため、武家地の多くは空地となった。江戸は野草繁茂する空地だらけとなった。仕事を失った町人や武士を相手にした商家も倒産した。夜は盗賊が横行する無秩序な町となった。
 
  明治2年(1869)、東京府は没収した大名屋敷を空き地として、桑田・茶園を作る政策が採られた。『文京区史 巻三』昭和43年(1968)


『地籍台帳』から所有者を推理する
『地籍台帳・地籍地図(東京)』(全七巻 柏書房)によれば 地番は18番と19番である。
 18-2 下富坂町 奥村さゑ
 18-1 浅草区千束町2-251 矢作福次郎
 19-1 下富坂町18  奥村さゑ
 19-2 下富坂町19 川端玉章(日本画家)


明治初期頃、小石川富坂下にあった小島藩の上屋敷土地は、官有地となったらしく「憲兵第六管区分宅所」と表記されている、広大な水戸家の上屋敷跡は、砲兵本体の駐屯地となり、反対側の小島藩上屋敷角地に「憲兵第六管区分宅所」が作られた。

  明治19〜20年頃の地図では水戸屋敷脇道路が延長され、小島藩上屋敷の土地は中央から分断された。約半分は道路に、残り半分は春日町53番地となった。横の小笠原信濃守の屋敷跡は草地の火除地となっている。

『青標紙』天保11年(1840)から定紋(家紋)について

右国(持)家の長屋三間梁、万石以上長屋二間半梁、万石以下長屋二間梁の事。但し、表門に家々之紋附る事。国家併に帝鑑の間・柳間・交代寄合抔に限る』とある、大名屋敷門に定紋を附ける事があったのか、専門家でもハッキリ断定できないようだ。殿中「帝鑑の間」は城主格の譜代大名(60家)と願譜代(譜代大名に準ずる外様大名)、「柳間」は四位以下の外様大名と高家など、小島藩松平家は「菊の間」従五位なので『青標紙』の基準に合わない。定紋は附けなくていいようだが。



掛川藩太田家(摂津守・資功)5万石について……
 
  掛川藩は代々譜代大名が治めたところであり、なかなか藩内の収まりが悪かったが、延享3年(1746)に入封した太田氏が明治維新まで治めた。太田氏は太田道灌の子孫である。
 江戸藩邸 上屋敷 常盤橋内 4,709坪
       中屋敷 愛宕下薬師小路 1,150坪
       下屋敷 駒込千駄木 23,029坪
       下屋敷 本所小名木川通 6,045坪


『芝愛宕丁西ノ久保絵図』(近江屋版)嘉永元年(1848)の絵図には、愛宕下の中屋敷は見あたらない。中屋敷の経過が分かったのは『愛宕下遺跡 I』(2分冊)東京都埋蔵文化センター発行に「文献資料から見た愛宕下地区の屋敷拝領者・利用者の変遷」早稲田大学大学院・中西 崇氏の報告があり判明した。掛川藩中屋敷は、佐倉藩堀田備中守へ貸置(貸し出されている)されていた。時期は嘉永元年以前であるらしい、おそらく明治まで佐倉藩が使用したと考えられる。

 明治になり、廃藩置県の布告(明治4年)、9月には地租課税の予告、11月には地券制度を決め、明治5年(1872)から地券交付、土地に課税して税金を徴収することである。明治9年頃までに田畑や宅地は番地が振られ、地券所有者が誕生した。武家地であった大名屋敷も全て収公され、官庁や官史に割り振られ、それ以外は売り出された。その売り買いの証拠が地券で、東京市が明治45年(1912)東京市調査会が「東京市接続郡部 地籍台帳」と、大正元年「東京市接続郡部 地籍台帳」がある。これによれば、掛川藩中屋敷は江戸時代から呼ばれた佐久間小路から佐久間2丁目となり屋敷跡は13番地となり、前後二つに分割された。不思議なことに佐久間小路に面した中央に四角いスペースが描かれている。これは何を表すのか不明であるが、大胆な解釈をすれば大名屋敷門の事を示しているのかも知れない。(右写真参照・明治9年「明治東京全図」)

 

古地図 芝愛宕下西の久保
「御府内沿革図書」
文久2年(1863)赤丸が屋敷跡
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明治9年愛宕下西久保あたり
写真 大名屋敷門     明治9年「明治東京全図」
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小島藩定紋と掛川藩定紋を比較する
 定紋を調べると小島藩松平家は一般的な桔梗紋「丸に桔梗」で、義家流の清和源氏である。特長は花糸(かし)が短く花弁の三分の一ほどである。
 掛川藩太田家は「太田桔梗」と呼ばれる独特のものである、丹波郡桑田郡太田より起こり清和源氏頼光流、太田道灌を祖先とする、図称的には花糸が長く、花弁の半分ほどの長さである。丸山桔梗とも呼ばれる。
この事踏まえて蓮光院大名屋敷の定紋を見ると、花糸が短く、小島藩松平家の定紋である。↓


  写真 定紋

写真 瓦 写真 瓦
武家屋敷門に付いている定紋が彫られた瓦は、小島藩松平家の「葵の紋」を示すのか、それとも移築の
さい瓦は 別に取り換えられたのか。

2014年4月、大名屋敷門家紋について、新しい資料を発見した。
 『また表門に家紋をつけることが出来るのは、国持大名か、帝鑑間柳間交代寄合の家格に限られた。』(『江戸と江戸城』内藤 昌著 SD選書 鹿島研究所出版会 昭和41年2月28日刊)、これは「青標紙」の記述にあった。これに従えば帝鑑間は、幕府成立以前より徳川氏に仕えていた大名。柳間は五位および無官の外様大名である。上記で考察した小島藩(1万石)は「菊間(菊間広縁)」詰め、掛川藩(5万石)は「雁間」詰めである、そのため下丸子蓮光院・大名屋敷門の持主である可能性は無いといえる。また、この元資料は、青標紙である。(2014.04.16)

リンク〈他の武家屋敷門を見る〉
「江戸の武家屋敷門を巡る」都内に残る武家屋敷門を巡る。

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