伝承から探る−1
大名屋敷門は芝今里村にあった長府藩大名下屋敷門である(推定)
 

 仮説ー2 下丸子蓮光寺の大名屋敷門は、長州(萩藩)の支藩・ 長府藩毛利家
五万石の下屋敷門である。

 
古地図 白金付近
(注)1.

考証―萩(長門)藩毛利家の構成……5万石までの支藩はあるか
 
  毛利藩は本藩と支藩の5藩である。長門 萩(長州)藩毛利家37万石と3支藩(長府藩毛利家5万石・徳山毛利家4万石・清末家1万石)である。 これ以外にも本藩からは、認められなかった岩国藩吉川広家3万石があるが、除外しても良いと思う。この中で該当するのは、萩藩毛利家37万石と長府藩毛利家5万石である。清末1万石の江戸屋敷は愛宕下大名小路(新橋4丁目)にあった。門の格式から石高違いで除外する。(注)「著名な大名家であった」との記述から、萩藩毛利家に注目した。(注)
2014年に明治の本に、清末家1万石の大名屋敷門の写真を見つけたが、下丸子蓮光院にある門と違っていた。

萩藩毛利家37万石の江戸藩邸について(安永2年(1773)11月の江戸藩邸(注1)

拝領上屋敷 外神田 10.341坪 (現在の日比谷公園付近)
拝領中屋敷 外神田新橋内 1633坪
拝領屋敷 虎の御門内(中屋敷囲込) 2010坪
拝領下屋敷 麻布龍土町 33.780坪 (檜屋敷と呼ばれた麻布下屋敷)現在・六本木東京ミッドタウン
町並屋敷 深川鶴歩町 18.954坪
抱屋敷 荏原郡若林村 18.300坪 (現在・世田谷区 松陰神社)
家来抱屋敷赤坂今井谷 3500坪 支藩(吉川監物)
預り地 三河台 5400坪
 同   同  3780坪


長府藩毛利家5万石の江戸藩邸について(注2)
『諸向地面取調書』より(江戸時代)
上屋敷 麻布日ヶ窪          11410坪 (現在・六本木ヒルズ・毛利庭園)(注4)
下屋敷 白金今里村(白金早道場)    3561坪 (東京府白金三光町)(現在・白金4丁目)
抱屋敷 麻布日ヶ窪、上屋敷地続き    2677坪
抱屋敷 白金村・今里村入合、下屋敷地続き 517坪
長府藩江戸屋敷は上記の2カ所であり、藩主・家族とも日ヶ窪屋敷に居住しており白金村の下屋敷はあまり使われていないようで、安政6年(1859)の日ヶ窪邸火災時に避難したのは、愛宕下の円福院であった。その他、はっきりした記録もすくない。
別の記録では下屋敷の場所名が違う。
拝領上屋敷 麻布日ヶ窪
拝領下屋敷 白金早道場(上記では今里村となっている)
江戸時代初期頃は、5万石以下の小大名は、上屋敷と下屋敷の二つの屋敷が普通であった、約半分の大名が、そのようであったと考えられている。

長門清末藩1万石の江戸藩邸について(長府新田藩との表記もあり)
 上屋敷 愛宕下大名小路・廣小路道 (現新橋4丁目)毛利讃岐の守

岩国藩吉川家3万石の江戸藩邸について(『東京市史稿』では6万石となっている)
 抱屋敷  赤坂今井谷 3500坪
 抱屋敷  戸塚(豊多摩郡戸塚町) 3176坪

(注1)別名 周防山口藩、周防萩藩、山口藩、長州藩とも言われる。
(注2)別名 長門府中藩毛利家、長門国 豊浦(長府)藩毛利家、長門長府藩毛利家とも言われる。
(注3)萩藩毛利家は 石高36万9000とも言われるが、一般的な37万石と表記する。
(注4)江戸時代絵図では「毛利甲斐守」(3代藩主・毛利網元 従四位と表記される)、(12代藩主・毛利元運と13代藩主・毛利元周は従五位の「毛利左京亮」と表記される)、「毛利左京亮毛利邸」発掘記録では「日ヶ窪邸」「麻布桜田町屋敷跡」とも言われる。


萩藩毛利家 (37万石)江戸屋敷の変遷………
―「禁門の変」の戦いで朝敵となった江戸屋敷すべては破壊された―
 
明暦(1657)(別名・振り袖火事)の大火後、大名屋敷の移動……
 
  幕府は江戸城内吹上にあった御三家の屋敷を場外に移転した。また、城に近い大名屋敷も移転、火災の避難所として、下屋敷を郊外に持つように定めた。上屋敷は藩主の居住や政務の中心となり、中屋敷は世嗣や隠居した元藩主の屋敷、下屋敷は火災時の避難場所や、藩主の保養や接待場所として使用された。毛利家の屋敷は幕末まで同じ場所にあった。

 
  幕末元治元年(1864)7月24日、『禁門の変』(または「蛤御門の変」)により、朝廷から幕府に対し長州藩追討命令が出る、幕府は屋敷近くの米沢藩(加藤出羽守)や土屋采女正、脇坂淡路守の3大名に長州藩屋敷の没収命令を下し、同年7月26日、萩藩毛利家の江戸屋敷・土地を没収する。その際に、萩藩毛利下屋敷(麻布龍土町)の屋敷内藩士136名が捕らえられたと言われる。しかし戦闘による死者がないところを見ると本格的な戦いはなく、恭順を示して明け渡したのではないだろうか。しかし捕らえられた136名は、その後、2年にわたる獄中生活で51名が死亡した。この時、 萩藩抱屋敷(荏原郡若林村)にあった吉田松陰の墓は、破壊されたが、明治維新後に修復された。(現在、彼らの殉難碑が世田谷の松陰神社にある)
 
 萩藩毛利上屋敷は没収の10日後、江戸町奉行指揮の下に多数の町火消しが動員され、全ての建物を解体撤去した。その後、上屋敷内の諸品は幕府により払い下げることになり、江戸市中3000人の道具屋が集まったそうである、道具屋に売却された品物は、後に毛利近親が買い戻したと言われる。
  解体には、 延べ3857人の火消しが動員されたという。金具の付いたまま引き倒された木材は、幕府が集めた江戸の湯屋(風呂屋)581軒に売られて、薪になり燃やされたと言われる。また三尺(1メートル以下)の材木は、庶民が自由に持ち帰る事を許したため、屋敷に多くの町人が入り込み持ち去った。また、庭の樹木や庭石も業者に売られた。その金額は千両を越えたという。 他の拝領屋敷も同じであったと考えられる。現在、上屋敷跡地は六本木ヒルズ・毛利庭園となっている。(『長州邸取毀一件』毛利藩上屋敷跡発掘調査報告書から港区所蔵)
 別の資料に拠れば、7000人の火消しを動員して打ち壊したとある。(『千代田区史 中巻』千代田区 昭和35年(1960)刊)
 
同時に破壊された萩藩拝領下屋敷跡は、火除地(ひよけち)となり広大な空き地となった。花見の時には14軒の茶屋が出たそうである。切絵図には、毛利藩の名前を消された空き地となっている。その後一時期、茶園として利用され明治政府に引き継がれた。
 
  明治6年(1873)、この地は軍用地として東京鎮台歩兵第一連隊の駐屯地となった。現在は東京ミッドタウンとなっている、建築前に詳細な調査がなされ調査報告が刊行された。(『長門長府藩毛利家下屋敷跡・麻布桜田町町屋跡遺跡 発掘調査報告書』2004年 港区遺跡調査事務所


明治維新(1868)後しばらくの間、萩藩毛利家の藩邸はなかったようだが、明治4年(1871)に明治政府より品川の高輪町にある総面積17.000坪の旧久留米藩邸地を下賜され、明治5年(1872年)には高輪(常磐)邸を新築して本拠となった。

長府藩毛利家(5万石) 江戸屋敷の変遷………白金今里村(白金早道場)
  本藩と違い「禁門の変」への関与が薄かったため、収公(没収)されたが江戸屋敷は破壊されずに残った。
「蛤御門の変」または『禁門の変』(1864年8月20日)のおり、長州征伐が行われていく過程で、長府藩にも収公(没収)の命令が出た。隣接する八戸藩主南部遠江守に接収命令が出された。しかし、この時、藩に下された罪は萩藩と行動を共にした連座であり、罪は軽くになり藩邸の取り毀しはなかった。後に見つかった資料では、老中の堀田(佐倉藩)が明治維新まで屋敷を預かった。


萩藩毛利家(本藩)の江戸屋敷は幕末に破壊されているので、蓮光院大名屋敷門は、破壊をまぬがれた芝白金の長府藩毛利家下屋敷の可能性が極めて高い 。次に下屋敷のあった場所を地図で確認する。


 

考証―長府藩毛利家下屋敷のあった白金早道場とはどこか……1
 
  昔の地名を参考に古地図を探ると、目黒からの目黒道が桜田通りにぶつかる三角路あたりとなる、右側に「清正公」(最正山 覚林寺 元は熊本藩中屋敷)があり、左側に高輪消防署がある、消防署の裏側(白金2丁目)の一部が長府藩下屋敷であった(下記地図参照)。地図で見るとかなりの広さ(3560坪)である。消防署脇の坂道を、目黒方向に行く道を『早道場(はやみちば)』と言ったらしい。名前の由来は「寂しい道なので襲われないように、早く歩く」ような場所(みちば)と言うことらしい。


『芝區史』芝區役所編 昭和13年(1938)から下屋敷を考える。
 寛文年代(1661)頃の芝は場末で、これより内は小者、百姓、中間、馬子は馬から下りる場所を示す「下馬定杭」のある所であった。白金には白金今里、白金猿町、白金三光町の地名があり、22家の大名屋敷があった。その中で5万石の大名は、筑前秋月の黒田藩 5万石、讃岐丸亀の京極藩 5万石、長州府中藩(長府藩)の毛利家の三家である。
  白金村は相模街道(大山道)沿いの増上寺領である。長府藩毛利家下屋敷(毛利左京亮屋敷)は白金三光町にあった。


『東京市史稿 市街編 49巻』東京都発行 昭和35年(1960)より大名屋敷を考証する。
 「諸藩江戸邸ノ沿革ヲ集記ス」に江戸時代・江戸の大名屋敷を調べたページがある。他の毛利家や白金あたりで関係すると思われる大名屋敷を検証する。283藩の上屋敷・中屋敷・下屋敷・抱の屋敷変遷を廃藩置県まで記述してある。「江戸藩邸沿革」(618ページ分)が大名屋敷の沿革である。編集委員・室又四朗氏が編集中に死亡した、そのために約2割が未整理で、記載が無いことは残念である。



1.
萩藩毛利家・岩国吉川広家3万石であるが、本書では6万石となっている。抱屋敷(赤坂今井谷)、戸塚(豊多摩郡戸塚町)、鹿児島藩(薩摩藩)77万8千  石 抱屋敷(白金今里村)、

2.山口藩(萩藩、長門藩)の中屋敷(麻布龍土町)を赤坂区檜町歩兵第一連隊敷地としている。抱屋敷(1946坪)が白金臺(だい)町とあるが場所は不明。

3.福岡藩黒田家52万石 下屋敷(3342坪)白金今里村、

4.安中藩飯倉家3万石 抱屋敷(坪数不明)芝白金、

5.秋月藩黒田家5万石 上屋敷(坪数不明)芝元札之辻が池田家と関係があったらしい、しかし場所が離れているので蓮光院の大名屋敷門とは考えにくい。

 


(注)
1.内務省地理局「東京実測図」から編成(明治20年〔1887〕)
『東京都港区 近代沿革図集 高輪・白金・港南』東京都港区区立三田図書館 昭和47年1月15日発行


  地図上の緑色の部分が六分割された長府藩毛利家下屋敷跡である。
  江戸時代に朝敵になり、萩藩(長州藩)は江戸の大名屋敷は打ち壊された、わずかに残った支藩の長府藩下屋敷も、老中堀田家の佐倉藩の預かりとなり明治を迎えた。どのような状態で明治を迎えたか、はっきりしたことは分からない。佐倉藩江戸家老の日記が順次刊行されるようであるが、冊数が多く幕末の事が判明するには時間が掛かりそうだ。
 おそらく明治20年(1887)の土地分割では、建物は壊されたが屋敷門は残され、原っぱにぽつんと建っていたであろう。白い部分が気になる、門のあったところか。

明治30年(1897)、東京郵便電信局「東京港区全図」の地図では、周りの草原も全て番号(地番)が振られている。おそらく周りが開発される明治30年までに、屋敷門は壊されたと考えるのが自然であろう。(『東京都港区 近代沿革図集 高輪・白金・港南』東京都港区立三田図書館 昭和47年1月15日発行)


大名屋敷門・目次