《大名屋敷門藩名の謎を、地図と資料から考察する》
●伝承ー1……「大名屋敷門は五反田池田山の岡山藩下屋敷門」である。これは大田区の認識であるが、備前 岡山藩池田家(31万5000石)の大崎下屋敷とは根拠の無い伝承である。下屋敷を考証する。
江戸切絵図「目黒白銀辺図」景山致恭,戸松昌訓,井山能知・編 嘉永2年(1849)尾張屋清七出版 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵。 赤丸が大崎下屋敷である。
現在の住所では品川区東五反田5丁目である(『江戸復元・江戸情報地図 六千五百分の一』朝日新聞刊)
●大崎下屋敷の成立
明暦3年(1657)に発生した江戸の大半が焼失し、大名屋敷や江戸城天守閣も焼失した明暦の大火で上屋敷を始め、3ヶ所の屋敷を失った池田藩三代光政は、家督を譲った後の住処を大崎下屋敷に決め、40年ほどをかけて周りの土地を買い求めたり、相対取引で土地を購入しました。最終的に広さは3万7000坪(拝領地18000坪・抱地19000坪)あまりになりました。敷地内中央には、10メートル程の小山があり、その頂上に屋敷があった。庭園や御菜園、材木林などもある広大な下屋敷でありました。明治2年(1869)の大名屋敷上地令により大名小路の上屋敷は取り上げられたが、大崎村の下屋敷は下賜された。
下屋敷は天和2年(1682)に深川屋敷を手放すときに移築したものです。隠居した元藩主の住まいとなる中屋敷の役割を担っていたのです。そのため下屋敷の門は上屋敷ほどではないが、31万石の格式を持つものだと考えられます、しかし別の説によれば、風雅を愛する光政が華美な大名屋敷を嫌い、屋根も茅葺きだったと言われています。門の詳細は不明です。
●大崎下屋敷の規模・景観について
下屋敷の門は三ヶ所、現在の「桜田通り」方向から入る道(地図の下側)は東側の門です、道の両脇には杉林があり表門に向かう道です。南の裏門は五反田方向から目黒に向かう「花房通り」からの登り道である。北に「目黒通り」方向からの目黒門がありやや登り道です。ここからでも高台は標高差が20メートル程あったようです。地図の中央部は高台で隠居した藩主が住む屋敷がありました。池は谷底にあり池泉回遊式庭園となっており、南側高いところに「山ノ茶屋」があり、下の道から30メートルの標高差があったようです。ここから見下ろす風景は素晴らしく、遠くには富士山も見えたと思われます。東側には御殿山があり、遠方には海が見えたのでないでしょうか。また、屋敷の周りには広大な林と菜園があり、材木林は藩邸の火事に補修用として使われました。
(絵地図・江戸大崎御屋敷絵図 明和9年(1772)10月 岡山大学付属図書館蔵)